楽園の猫
世界が造られてまだ間もないころ、東の地に楽園があった。
神の造ったこの楽園には、世界中の生き物がすべて集められていた。神は世界を造り、生き物を造り、楽園を造り、花と樹と草と動物たちを住まわせた。最後に神は人間を造った。まずは男を、次に女を。
人間は、小麦色の肌をした手足の長い生き物だった。男の身体は逞しく、脛も腕も、そして顎も栗色の毛に覆われていた。女の身体はしなやかで、焦げ茶の髪は波打ちながらくびれた腰を覆っていた。神は彼らを動物たちの主として楽園に迎え入れた。
美しい生き物で満たされた楽園だった。草は丈高く柔らかく、踏まれるたびにみどりの香りを漂わせた。花々は陸に水面にあざやかに咲き匂い、風が吹くたび金色の花粉を散らした。樹々は丸や雫形や三角形の葉の間から、色とりどりの果実を滴らせた。
生き物たちは広々としたエメラルド色の草原で、深い瑠璃色の水の中で、トパーズ色の木洩れ日を降らせる樹の上で、のんびりと毛繕いをしたり、瞼のない眼を宙に向けてまどろんだり、男と女を、そして時折訪れる神を楽しませるための歌を囀ったりしながら世界の朝を過ごしていた。
争いはなかった。病もなかった。一滴の血も流されることはなかった。恐怖も哀しみも痛みもすべて、楽園の外に締め出されていた。
ここにはすべてがあるのだと、男はよく動物たちに言ってきかせた。わたしたちほど幸せで豊かで、安全な生き物は世界のどこにもいないだろう。そう口にするとき、彼は決まって丘のほうに眼を向けた。園の中央の丸い丘には、この楽園で最も美しい樹が植えられていた。
「でも、あの丘にだけは近づいてはいけないよ」
「その通りよ」女が付け加えた。「あの丘には特別な樹があるの。その樹からだけは、けっして実をもいで食べてはいけないのですって。そうするとなにかとてつもなく恐ろしいことが起きて、わたしたちはここに棲めなくなるのだって神さまが仰っていたわ」
動物たちは頷いた。あまりにもゆっくりとした動きだったので、頷くというより舟を漕いでいるように見えた。
金のたてがみを持つ獅子は、もしもけしからぬものが現れてその実を取ろうとしたら自分を呼んでくださいと請け合った。オパール色の鱗を持つ魚は、そもそも丘に近づくことができなかった。紅玉色のくちばしを持つ鳥たちは、丘の上の樹を賛美する新しい歌をうたった。
楽園の獣の中には猫もいた。つややかな白い毛に藍色の眼の猫だった。正三角形の耳は銀色の産毛に覆われ、小さな鼻は桜貝の色をしていた。長い尻尾は気分に合わせてゆらゆら揺れたり、ぴくりと動いたり、ときにつんと立ったりした。
猫は女のお気に入りの動物だった。暇さえあれば猫を呼び寄せ、膝に乗せ、背中をさすり、喉をくすぐり、彼女は猫にこう囁いた。
「お前は神さまが造ったものの中で、いちばん美しく、愛らしい生き物だわ」
悪い気はしなかったが、特別嬉しいわけでもなかった。うす黒い気持ちとは無縁の楽園だったから、ほかの生き物にやっかまれる心配はなかった。ただ猫は、人間にとらえられ、撫で回され、作り声で囁かれるより、ひとり気ままに過ごすほうが好きだった。
†††
その日も猫はひとりだった。睦みあう獣たちの、鳴き交わす鳥たちの、互いの尻尾を追いかけあう蜥蜴たちの間を抜けて、花の中を、梢の下を、石の上を歩いて行った。
花は猫にもかぐわしく香った。梢の降らす木洩れ日は、猫の白く細い背中に金色の地図を描いた。藍鼠色の丸い石は肉球に心地よかった。
楽園には恐れというものがなかったから、猫は水辺で遊ぶこともあった。絹のような水を前脚でかき回し、起こした波が向こう岸に届くさまを眺めるのは愉快だった。睡蓮の葉の上で、緑の蛙がそんな猫を不思議そうに眺めていた。
遊びに飽きると眼についた樹に昇り、葉擦れの音に囲まれてしばらくの間微睡んだ。昼寝にも飽きると、この楽園の果ての、そのまた向こうにはいったい何があるのだろうかと考えた。けれども猫は、その楽園の果てさえまだ見たことはなかった。
そうして猫が微睡んだり、とりとめのない考えごとに耽ったり、途切れ途切れに奇妙な夢を見たりしながら過ごしていると、風以外のものが葉を動かすかさりという音がした。同時になにか、水に似た匂いが鼻を突いた。
眼を開けると、猫の休む樹の股の端に、ぬめぬめとした鉄色の、長い尾のようなものがあった。
猫はぴんと髭を立てた。耳がさっと横に倒れた。脚の先から鋭い爪が飛び出した。
「落ち着いて」と尾は言った。「怪しい者ではありません。自分は蛇です。間違いなく神に造られたもので、この園の住人です。つまり、あなたのお仲間というわけです」
「これは失礼」猫は爪を引っ込めたが、眼の奥にともった真紅の炎は消すことができなかった。「蛇ですか。あなたにお目にかかるのはたぶんこれが初めてだ。この園にはあんまりたくさんの生き物がいますからね。すべての動物と友達になり、すべての植物の名を覚えるには永遠の時間があっても足りないでしょう」
猫の眼に宿る光を恐れもせずに、蛇はするりと樹の股をつたい、近くの枝に長い身体を巻き付けた。尾っぽよりもずっとしなやかでやわらかい蛇の身体は、いちめん鱗に覆われていた。魚の鱗よりも濃い虹色が、身じろぎするたび炎のようにゆらめいた。身体の先にはいちごの形の小さな頭がついていた。
「ところで」枝に身体を落ち着けると、蛇は首をもたげて言った。黄色い眼は猫のものに少し似ていた。「あなた、この楽園に退屈しているんじゃありませんか」
「その通りだ」猫は密かに爪を出したり引っ込めたりした。「人間も、ほかの動物たちも、ここよりも素晴らしい場所はないと言っているが、おれはそうは思わない。花の匂いは甘すぎるし、草はやわらかすぎるし、石は滑らかすぎるのだ」猫は以前、女に囁かれた言葉を思い出した。「女は、この楽園の草や土や石は、おれの脚をけっして傷つけないから安心だという。だがおれの肉球はそんなやわなものじゃない。いばらの野も砂利だらけの道も、ごつごつした岩場も、充分に走ったり登ったりできるはずだ」それからため息をつき、こう付け加えた。「ああ。たしかにここは退屈だよ」
蛇はにやりと笑ったように見えたが、頬まで裂けた口のせいかもしれなかった。
「あの人間というものも忌々しいと思いませんか。神に命ぜられたというだけでこの楽園で主人面をして。元々は同じ被造物、それも一番最後に造られた、いわば弟ぶんじゃありませんか」
「さあね」猫は爪を半分出したままあくびをしたが、蛇は話をやめなかった。細い舌が、蛇の薄い、なのにくっきりと刻まれた唇の間からせわしく出入りした。
「どうです、ここで一度、あの人間に痛手を喰らわしてやりませんか。わたしに考えがあるんです。ずっと前、あのけったいな生き物がここに連れて来られたときから温めていた考えがね‥‥」
「いや、おれはどうでもいいよ」猫は身を起こし、前足を突き出し、爪を枝に食い込ませて伸びをした。思いきり伸ばした身体は蛇のように見えなくもなかった。「勘違いされては困るね。おれは別に人間が嫌いなわけじゃない。おかしな作り声で話しかけてぬるま湯の幸せに満足して、それをおれにも言い聞かせる馬鹿な奴だと思ってはいるがね。でも、あいつらが王さま気分で幸せなら、勝手にそうさせておけばいいじゃないか」
「これは失礼」蛇は二股に分かれた舌をさっとしまった。「誘う相手を間違えたようだ。今の話はなかったことに‥‥」
そうして蛇は、悪びれるでもなく、不安げな様子を見せるでもなく、世間話が終わっただけだとでもいうように長い身体を枝からほどき、幹をうねうねと滑り降り、つややかなビリジアンの繁みの中に姿を消した。
陽は西に落ちかけていた。猫は前脚を胸の下にしまい込み、しばらくの間、重なる枝のはるか彼方を見つめていた。木洩れ日は消えていた。空が青から薔薇色に染まりはじめた。
薔薇色はやがて菫色に変わった。昼の獣たちが今夜のねぐらを探し、夜の獣たちが目覚めて動き出す時間だった。
「そうだな」と猫はつぶやいた。「おれも、いつまでもここにいるものでもないだろう」
それから猫は枝から下りると、樹の下から伸びる小径を歩きだした。楽園に棲む生き物が今まで一度も選んだことのない道だった。
†††
黄昏の風が吹いていた。遠く、森の向こうから女の呼ぶ声が聞こえた。
「ねえ、どこにいるの。いつもならわたしの膝ので喉を鳴らす時間じゃないの‥‥」
猫はそのまま細い小径を歩き続けた。戻る気にも振り返る気にもなれなかった。
ほかの獣は見あたらなかった。水の流れる音が聞こえた。碧の蛍が鼻先を過ぎ、湿っぽい暗がりに姿を消した。灰色の目玉模様の白い蛾が、ごつごつとした樹皮の上に休んでいた。
満月だった。うす青い光が、樹々の間から、枝の上から、森の果てから注いでいた。月光の照らすまっすぐな幹の群れは、しんと佇むのっぽの巨人のようだった。
ふいに小径が消えた。立ち止まって見上げると、梢の影が猫の真上に漆黒の冠をつくっていた。猫は導かれるように、銀の粉をまぶしたようなような下生えの中を歩き始めた。
猫はひとり旅を続けた。気ままに歩き、歩くのに飽きれば樹の上でしばし休んだ。森は変わりなく続いているように思え、果てなどないかのようだった。しかし、猫を取り巻く葉の匂いは休むたびに違っていた。男や女や他の動物たちのいる辺りの緑は、甘ったるいぼやけた香りを放っていたが、今はその甘さは薄れ、代りに獣の体臭に似た胸を騒がせる匂いが混ざるようになっていた。
新しい匂いは日を追うごとに強くなった。これが外の世界の匂いだろうかと猫は思った。
どれほど長く旅をしたのか、猫自身にも分からなかった。満月を何度か見た。木洩れ日の下を歩くのも、月の光の中を歩くのも、猫は同じくらい好きだった。最初の満月は青かったが、次に見た満月は白かった。三回目に見た満月は淡いレモン色をしていた。
そして銀色の満月の夜に、なんの前触れもなく森が途切れた。すべすべとした樹の間を抜けると、猫は荒れ地に立っていた。
†††
ちょうど満月が昇るところだった。
猫は森の端に佇み、地平線にかかる満月を眺めた。大きな月だ。あまりにも大きいので、今にも世界を呑み込んでしまうかと思われた。月のおもての模様がはっきりと見えた。女はあの模様から素朴な物語を考えるのが好きだった。しかし、すべてはもう過去の話だ。
月の端が地平線から切り離された。黒い筋が大地と空を分けている。大地の黒は暖かく、空の黒は透明で、境の黒はけぶっていた。
月は高くなるにつれて輝きを増していった。月が天頂に近づくにつれて、猫の前にはっきりと、新しい世界が姿を現した。見渡すかぎりの裸の大地。ごつごつとした岩場。大地に岩に、しがみつくように生えている裸の藪。
猫は荒れ地に最初の一歩を踏み出した。硬い、踏み応えのある大地が肉球を受け止めた。思ったほど乾いてもいないし、冷たくもなかった。
右手のずっと遠くのほうに、自分が住んでいたものとは違う、森とおぼしきひしゃげた塊が見えた。水の流れる音がした。どこか、あの地平線の更に向こうからだろうか、生き物の気配に満ちた潮っぽい、妙な匂いがした。
猫は鼻をひくつかせた。空に近いところを吹く風や、凍りついた大地や、石と硝子と鉄で造られた今はもう棲むもののいない街や、色あざやかな植物がみっしりと絡み合う密林の残り香が、荒れ地の大気にうすく混じっていた。
外の世界は楽園ほど豊かではなかったが、死の世界ではないようだ。喜びに猫は身体を震わせた。
そのときだった。
「こんばんは」と声がした。猫は耳を疑った。ほかの生き物の気配に気づかなかったことなど、今まで一度もなかったからだ。いつでも逃げられるように、あるいは飛びかかれるように、脚にぐっと力を入れて声のほうに身体を向けた。
すぐ左手に岩があった。その上に奇妙な生き物が座っていた。
人間の女に似ていた。この生き物も彼女のように顔が丸く、髪を伸ばし、胴体からはひょろりとした後ろ脚と、あのみっともない腕とかいうものが伸びていた。
生き物の腕や肩は、二番目に見た満月のように青白かった。髪はまさに今、世界を照らしている月に似た銀色で、太い一本のおさげにしていた。なによりも違うのは、この生き物が肌の上にもう一枚皮をつけていることだった。花びらや葉に、いや、花びらや葉より流れる水面によく似た皮だ。蝶の羽を思わせたがもっとやわらかそうだった。
「こんばんは」その生き物はもう一度猫に言った。
猫は頷いた。どう答えていいのか分からなかった。
生き物はうすく微笑んだ。女にも、蛇にも似た笑みだった。それから森のほうを指し、こう尋ねた。
「あの森の楽園から出てきたの?」
「そうだ」猫は頷いた。
「やっぱりね」
「なぜ?」
「わたしもなの」
「きみも?」
猫は改めて生き物を見た。猫の驚きに気づいてか、女はこう付け加えた。
「あそこは退屈だもの。安全で、豊かで、美しくて、守られているけれどなにもすることがないの。みんなどうしてあんな処で幸せでいられるのかしら」
猫は頷いた。「おれもそう思っていた。それであの楽園を出てきたんだ。こんなに簡単に出られるとは正直思わなかったがね。しかし」
そこで彼は初めて、自分の出てきた森のほうをちらりと見やった。
「おれがいなくなって、楽園は大変なことになっていやしないだろうか。すべての生き物が集められている園から、猫と、それからきみという生き物が消えてしまったのだ」
きみと呼ばれた生き物は、肩をすくめて笑い声をあげた。
「大丈夫よ。ひとついなくなったことに気づけば、神はまたひとつ創るだけだわ」そして戸惑う猫を覗き込んだ。「分からない? わたしは最初の女なのよ。あなたがあの楽園で一緒にいたのは二番目の女なの」
「なるほど」この生き物は肌と髪の色は違うが、あの人間の女と同じ生き物なのだった。もう一枚の皮に見えたものは、この女が自分で作るか、どこかから手に入れるかして身につけているのだろう。楽園の女もたまに、美しい花や葉で身体を飾って喜んでいた。
「ということは、早々におれの二番目が造られて、あの園に放たれるというわけか」
「あなただけじゃないわ。ライオンも、蛙も魚もよ。それも二番目どころじゃない、五番目とか六番目とか、十番目とか二十番目のものもあるわ」
最初の女はするりと岩から滑り降り、裸の地面の上に立った。衣がさざ波のように、彼女の肩から、腰から、腕から、踝に向かって流れ落ちた。彼女は脚に分厚い皮を巻き付けていた。靴というものらしかった。
「さあ、行きましょう」
「どこへ」
「どこでも好きなところへよ。海、高原、雪山、無人の大都会、熱帯のジャングル」
言葉の意味も分からぬままに、猫の胸は高鳴った。
ふたりは歩きだした。月は森の向こうに傾き、東の地平が明るみだした。空が青く染まるころ、荒れ野は緑の草原に変わった。楽園のような籠もった甘さのない風が、女の衣を、猫の髭をそよがせた。
女は嬉しかった。外の世界は既に多くの生き物に満ちていたが、猫はまだいなかったからだ。楽園にいたころは遠くから眺めるだけだったが、猫は女のもっとも好きな生き物だった。
男と、それから蛇もまだいなかったが、ほかの動物たちと猫がいれば彼女にはもう充分だった。
FIN
Kohana S Iwana
2020/12/15~20204/04/20