霊園

 よく晴れた初夏の日だった。
 昼前から雨という予報だったが、傘は持ってこなかった。小さな黒いバッグの中身はハンカチと事務用のナイフ、ダイアリーと父の形見の貝殻細工のボールペン、それに縁のほつれた折り畳み式の財布だけだ。
 バッグは黒を選んだが、服まで地味な色にする気にはなれなかった。こんなに気持ちのよい日なのだ。だから、五分袖のブラウスと水色のスカートの上にレモン色のニットを羽織ることにした。靴は買ってから数度しか履いていない若草色のパンプスだ。少し可愛らしすぎる気もしたが、特別な日なのだからいいと思った。
 黄色いバスの乗客はわたしだけだった。運転手さんはとっくに家で孫の面倒を見ていてもおかしくないような山羊髭のお爺さんだ。ミラーに映る長い眉毛の下の眼は、居眠りでもしているかのように細かった。
 バスはくねくね曲る小路を抜け、大通りから街を出て若草色の野を走り、深い谷に架かる錆のだらけの鉄橋を渡った。山羊の運転手さんがハンドルを取れられて谷に落ちるかと思ったが、そんなことにはならなかった。
 青緑色の木陰をくぐり、ぱっと明るい日が差すと、青空の下に広がる墓地が見えた。
「霊園前、つぎは、霊園前」というアナウンスを聞いてチャイムを押した。ステップを降りる前に、金属製の箱の口に硬貨を落とした。白い硬貨と茶色い硬貨はゆっくりと機械の奥に呑まれていった。
 バスは初夏の光の中をのんびりと去っていった。懐かしい排気ガスの匂いを嗅ぎながら見送ると、わたしは墓地の真っ白い門をくぐった。

 墓地には教区の人間がすべて埋葬されていた。怪奇小説のような怪しげな雰囲気が全くないのは昼間だからだろうか。それとも天気のせいだろうか。ゆるやかに波打つ芝の中に、思いおもいに作られた墓がぽつぽつと散っていた。白い道が墓石の間を縫い、よく手入れされた花壇の傍には真鍮のベンチが置かれている。奥のあずま屋は黄色とピンクのバラにのつぼみに飾られていた。
 わたしはしばらく墓地を歩いた。平日のせいか、ほかに人は見当たらなかった。それから名も知らぬ大きな樹の下に置かれたベンチに座り、バッグからペンとダイアリーを取り出した。
 今月ぶんのマンスリーページは真っ白だった。その前の月の終わりに近いところに、恋人だった人との約束が小さな字で記されていた。
 最後の予定だった。彼とは二度と会えなくなったからだ。突然のことだと言いたかったが、実は何か月も前から予感はあった。でも、彼の気持ちが離れていることを認めたくなかった。彼のいない人生なんて、ありふれた言い回しだけれどありえなかった。だから気づかないふりをして、わざと明るく振舞っていた。この半年のわたしは、今自分で振り返ってもおかしかったと思う。
 振られた翌日から始まった躁状態の28日間のあと、頭が枕から離れない鬱状態がやってきた。数日か一週間か、仕事を無断欠勤した。そして今朝、久しぶりにシャワーを浴びて化粧をして、彼と初めてデートをした時着ていた服を引っ張り出して、職場とは反対方向のバスに乗ってこの墓地まで来たのだった。
 ダイアリーの、まだ何も書かれていないフリーページを開いて膝に乗せた。そのとき、どうしたはずみかペンが指から抜け落ちた。
 あっと言う間だった。貝細工のペンは、柔らかい草の中に隠れてしまった。自分の靴の右のつま先のそばに落としたに違いないのに、どうしても見当たらない。
 ため息をついて立ち上がろうとすると、青い木陰に濃い黒い影が重なった。
「落としたよ」
 声は言った。わたしは中腰のまま眼を見開き、ゆっくりとベンチに座りなおして顔を上げた。自分の顎が震えるのが分かった。
「おとうさん」
 影の主は父だった。病に侵され、白髪が増え、やせ細り、眼だけが大きなガラス球のように輝いていた父ではなかった。元気な時の、毎朝癖毛を櫛で整え、夏は山と海で、冬はスキー場でよく日に焼け、穏やかな眼に時々皮肉っぽい光を走らせる、元気な時の父だった。
 わたしは父からペンを受け取り、そのままダイアリーと一緒にバッグにしまった。なにを書くつもりだったのか、すっかり忘れてしまっていた。
「どうしてこんなところにいるんだ」仕事を休んだことを怒っているのだろうか。まじめな父らしい言葉だ。しかし父はそれ以上は何も言わず、わたしの隣に腰を下ろした。父が生前愛用していたヘアトニックに匂いがした。
 わたしたちはそこで、ずいぶんと長い間おしゃべりをした。父が今どんなふうに過ごしているか。父が死んでしまってから我が家がどんなふうに変わったか。
 母が心を病んで入退院を繰り返していること、兄が学生時代から目指していた仕事で成功していること、それに対してわたしはというと、小さな会社で馘に怯えながら毎日雑務に追われていること、いや、この無断欠勤でもう馘になっているのかもしれないこと。欠勤の原因になった恋人との別れ。
「もうなにもかも嫌になったんだ」子どものような口調でわたしは言った。「お兄ちゃんはなんでもうまく行っていて、恋人のいることだけがあたしの勝ちだったのにそれもダメになっちゃって。だからノートに洗いざらい全部書いて、手首でも切ってやろうと思ったの」
 父は怒らなかった。ただそうか、と頷いた。それからズボンのポケットを探った。
「手を出しなさい」と父は言った。そしてわたしはてのひらに、金属製の葉っぱのモチーフをそっと置いた。「お守りだ。つぎに会う時まで持っていていいから」
 わたしは頷いだ。もうここにいてはいけないのだとわかった。
 幾度も振り返りながらわたしはベンチを後にした。父は木の下でずっと手を振ってくれていた。
 黒い門から外に出ると、空がふいに曇りだした。さっきまであんなに明るかったのに、今にも雨が降り出しそうだ。どうしよう、と思ったところでバスが来た。いつも通勤に使う丸い水色のバスだ。バスは舗装されていない、坂だらけの道をごとごと端って街に着いた。
 雨に濡れながら最寄りの店でパンとサラダとチキンを買い、駆け足でアパートに戻った。
 部屋は自分でも呆れるほど散らかっていた。あーあ、とため息をつき、ともかく腹ごしらえをしようとやかんを火にかけた。ふいに寒さを感じて暖房のスイッチを入れ、雨に濡れた髪を拭いて長袖の部屋着に着替えた。
 そのときやっと気がついた。今はまだ三月のはじめだった。父の墓参りには時々行っていたが、鉄橋を渡ったことも、その先の森を抜けたことも一度もなかった。このあたりでレモン色のバスなど一度も見たことはなかった。墓地の門も柵も白かったことは一度もなかった。
 我に返ると同時に自分の手がぶるぶると震えだした。どうにかコーヒーを淹れ、芥子の実をまぶしたパンを齧りながらバッグを探った。ダイアリーも形見のペンもいつものままだ。食べかけのパンを包み紙の上に置き、両手でバッグをひっくり返すと、光るものが床の上に転がり落ちた。
「あ、こんなところにあったの」とわたしは思わず声を上げた。昔、家族で旅行した時、古い教会の売店で買ってもらった純銀製のお守りだ。風に揺らめくハート形の葉は復活のしるしだった。
 わたしはお守りを取り上げ、この小さな穴を通る銀の鎖はないかしら、と考えた。それからコーヒーを飲み、改めて久しぶりのまともな食事に取り掛かった。
 まずはこの部屋を掃除して、溜まりにたまった洗濯物を片付けて、今の仕事はいっそやめてしまおうと思った。自分がずっとやりたかったことはなんだったかしらと考えた。先月のままになっていたカレンダーを剥がし、今日の日付を確かめた。
 明後日は週末だ。兄と一緒に母のお見舞いに行って、それから帰りにこれからの身の振り方について相談しよう。すべてが決まったら父に報告しに行こう。
 そのとき乗るバスは水色で、鉄橋も森も通らないと分かっていた。


FIN
Kohana S Iwana
2023/11/04~2024/04/21