図書館

  戦争は終わった。あんなに懸命に、あんなに長く、あんなに必死に戦ったのに,わたしたちはこの戦いに勝つことができなかった。
 わたしはひとり、灰色の街を歩いていた。わたしが生まれ育った街だ。国でもっとも賑やかで、もっとも美しく、海辺に咲く花と言われていたところだった。
 青空をつく高いビルが立ち並んでいた。公園の、パステル色に塗られた遊具で子供たちが遊んでいた。広場にそびえる天使の像が、薔薇色の瓦の波を見下ろしていた。三階建ての白い壁の間の路地には洗濯物がはためいていた。鎧戸付きの窓には花が飾られ、朝にはパンの、夕方にはシチューの匂いが漂った。
 今はすべてが失われた。
 空には灰色の雲が垂れ込めていた。かつてはこの国を象徴するオレンジの薔薇が描かれていた壁には巨大な穴が開いていた。集合住宅は外からでも部屋べやの様子がよく見えた。傾いたベッド、綿の飛び出したソファ、今にも落ちてきそうなピアノ、不思議と汚れていない額入りの風景画。
 公園の真ん中に斜めに刺さった不発弾は、平和な時に笑って読んだ漫画のワンシーンのようだった。でも、今のわたしはうつむいたまま脇を通り過ぎるだけだ。
 下町は破壊しつくされていた。ひと足ごとに踏む瓦の色がもともとのものなか、住人の血で染められたものなのかはわからなかった。途中、誰かが自分で脱ぎ捨てたのか、誰かに引きはがされたのか、それともどこかの窓からたまたま落ちたのかわからない上着を拾った。今が夏なのか冬なのかわからなかったが、ともかくひどく寒かったから袖を通した。
 少女が着るような丈の短いボレロだった。大きなくるみボタンには、花や鳥や木の葉が刺繍されていた。袖は、手の甲がすっかり隠れるくらい長かった。いつかこんなふうに、華奢に見せるデザインの服が流行ったことを思い出した。
 戦争が始まった時、わたしはまだ少女と呼ばれてもおかしくない歳だったが、今、自分が少女とか娘とか呼ばれたら違うと首を振っただろう。慰み者になる不幸は免れたが、代わりに何人もの兵士を手に掛けてた。初めて人を殺した時のことはまだはっきり覚えている、と言いたいところだが実はとうに忘れてしまった。
 緑の鎧戸と赤茶色の植木鉢のかけらの山を踏み越えたところに、見知らぬ人が座っていた。まだ若い男のようだ。声を掛けようとして異臭に気づいた。見ると、戦闘服の破れた袖から大きな傷が覗いていた。傷は黄色く膿んでいた。
 彼はわたしに気付いて顔を上げた。顎にうっすらと栗色の髭が生えていたが、まだ学校へ通っているような歳の少年だった。水色の眼に一瞬、なにか訴えるような色が浮かんだ。
 迷いはなかった。出しっぱなしの水道から汲んできた水で彼の傷をよく洗い、消毒をしてバッグにあったパッドを貼った。
 手当てが終わると彼は小さな声で言った。
「殺してくれると思ったのに」
「人が死ぬのはもうたくさん。あなたが敵でもね」
 包帯を巻きながら少年の袖や胸を確かめたが、バッジも腕章も見当たらなかった。
 わたしたちは連れだって歩き出した。行くあては特になかったが、今にも雨が降り出しそうだったから、ともかくどこか屋根のある、安全に休める場所を探さなければならなかった。
「きみ」歩き出してすぐに彼が声を上げた。「脚を怪我してるの?」
「くじいただけよ」わたしは言い、彼の差し出してくれた、怪我をしていないほうの腕に掴まった。おかげで少し歩くのが楽になった。

 ますます重く、低く垂れこめる雲の下で、わたしたちは幾人かの人に会った。家族を亡くした中年の女性、何が起きたのかわからず不思議そうに壊れた街を見まわしている、よちよち歩きの女の子、重い銃を杖代わりにした髭もじゃの兵士。
「もうこの国は終わりだ」と兵士は言った。「弾も燃料も尽きた。今敵が来たらやられるだけだ。だが、お前たちだけは俺が素手でも守ってやる」
「敵は来ないわ」先ほど仲間に加わったばかりの女が呟いた。白髪交じりの髪を垂らし、燃え立つようなマントを羽織った彼女はメディウム(霊媒)を名乗っていたが、わたしには妄想に取りつかれた狂女にしか見えなかった。しかし、ともかく仲間は仲間だ。
「なぜだい」三人の息子と五人の孫を戦争で失ったという老婆が尋ねた。「あんたの言う通りならありがたいがね」
「敵も味方ももういないからよ」メディウムは答え、少し間を置いて付け加えた。「遠くで毒の雲が上がるのが見えたの」
「あたしもそれみた」ピンクの長靴を履いたおさげの子が、メディウムのマントの星の縫い取りをぎゅっと掴んだ。「大きいオレンジ色の、おぼうさまの頭みたいな雲だった」
 わたしと兵士は顔を見合わせたが、ともかく歩き続けるしかなかった。

 わたしたちがようやくたどり着いたのは、神殿を模したような大仰なつくりの建物だった。外から見たところ、屋根はもちろん、窓も扉もすべて無事のようだった。美しい彫刻の施された両開きの扉には鍵が掛かっていたが、昔泥棒をしていたという男が幾つかの道具を使ってあっさりと開けてしまった。
「こんなふうになっちまったらね」彼はてきぱきと作業を続けながら肩をすくめた。「元の仕事も廃業だあね、少なくともこの国が平和になって、みんなが金持ちになるまではね」
 彼と兵士が建物に閉じ込められた人を何人か助けていたから、仲間は三十人ほどに増えていた。
 扉をくぐると、静かな、ひんやりとした空気がわたしたちを包み込んだ。中は暗かったから、最初は何が置かれているのか見えなかった。ただ、音の反響から、天井がひどく高いことだけは分かった。
 誰かが、たぶん元泥棒がスイッチを見つけて明かりをつけた。うす金色色の光の中に大量の本が浮かび上がった。
「図書館だ」と誰かが言った。そうだ、ずっと忘れていた。この国の、最も大きな街の真ん中に建てられた、この国でいちばん広く、いちばんたくさんの本を納めた公営の図書館だった。平和な頃、まだ銃の重みを知らなかった頃、まだ死んでゆく人の顔を知らなかった頃、ここにかよってたくさんの本を読んだことを思い出した。どうしてこんなに長い間忘れていたのだろう。忘れられていた図書館は時を止め、すべての本を美しい棚に納めたまま、戦争の終わりを待っていたのだった。
 わたしたちは子供のようにそれぞれの棚に散った。
 兵士は古代の英雄譚の本を取った。泥棒はとんまな義賊が活躍する児童文学を選んだ。家族を失った女は古い恋愛小説のシリーズを集めた棚に向かった。子どもたちは絵本の棚に駆け出した。メディウムの女はどういうわけか、従軍記者の手による分厚いノンフィクションを苦労して引き出した。わたしは子供のころに好きだった、全三巻の冒険小説をテーブルの上に積み上げた。
 いっそう暗くなった窓を大きな雫が叩き始めた。雨だろうか、霙だろうか。あの雫には毒が含まれてはいないだろうか。
 誰かがヒーターのスイッチを入れた。食べ物も水も、わたしたちは充分に集めていた。ともかくここにいれば安全だった。

 腕に包帯を巻いた少年が、花の育て方についての本を熱心に読んでいた。英雄譚を読み終えた兵士は、著名な哲学者が書いた平和と赦しについての本を手に取った。
 戦争は終わり、国はなくなってしまった。敵も味方ももうなかった。わたしたちはもう誰にも邪魔されず、誰にも脅かされずに各々の世界を守ることができた。



FIN
Kohana S Iwana
2023/11/05~20204/04/20