雨季      

 この星の夏は短かった。白やピンクや紺色の花が一斉に咲き、人々はその上をぶんぶん飛び交い、深紅やオレンジや黄色いイチゴを我先にと口に入れる。
 そんな日々がしばらくの間続いた後、滝のような雨が降る。雨季の間、彼らは各々の塔に閉じ込められる。川は溢れて海となり、森は緑の小島になり、高い丘は帰り損ねた者の避難所となる。そして雨がやみ、雲が切れ、青空から白い陽が差すと、きらめく水の上を行き来して互いの無事を確かめるのだった。
 この星の小柄でゆっくりと歳を取った。子供時代が最も長く、青年時代はそれに次いで長く、子を作る力を失うと急速に弱り、眠るように死でゆく。
 彼らは一日の五分の一しか眠らない。夏の間しか恋をしない。女たちは水が引くと、春の間に用意した産屋に誰が父親かわからない卵を産む。次の夏には別の男と恋に落ちる。産屋は細く高い塔の上にあった。

 彼は王子だった。と生まれた時から信じていたが、勝手な思い込みなのかもしれなかった。しかし、小さな丸い、居心地のいい彼の部屋は豪勢なタピスリーや美しいマットで飾られ、丸い籠には一生かかっても食べきれないくらいの実が、大きな壺には三人は養えそうなくらいの蜜が入っていた。ほかの塔を見たことはなかったが、こんなにも恵まれた自分は特別な存在に違いなかった。
 王子であるはずの彼は、どうしたわけかぐうたらだった。ぐうたらというよりは無気力だった。仲間たちは薄い羽が生えればすぐに窓から飛び出し、夏の空をぶんぶん飛んで恋をするのに、どうしてもそんな気になれなかった。毎日ベッドに寝ころび、座り、かと思えばひっくり返り、今日はいい天気だとか、昨日より雲が少し多いとか、風が強いとか、こんな日に初めて外に出たらうまく飛べないに違いないとか、そんなことを考えて何もせずに日々を過ごし、明日こそはこの虹色の羽をつかおうと自分に言い聞かせるのだった。
 そんなふうにしてまたひとつ夏が過ぎた。また雨が降り始めた。身体が少しだるいような気がした。ゆっくりと羽を広げ、視界の端に映る虹色の膜を確かめると、なんだか萎れているような、色が褪せているような、白く曇っているような気がした。
 いや、きっと気のせいだ。雨のせいでそんなふうに見えるのだ。
 雨季に外には出られない。飛ぶのは次の夏にしよう。彼はそう考え、鎧戸を下ろし、へたりだしたベッドの上に丸くなった。雨音が長い眠りを守ってくれるはずだった。

 誰かが鎧戸を叩いた。最初は雨音だろうと思った。王子は寝返りを打ち、耳を覆った。しかし音はしつこく、雨音にしてはいやにうるさかった。彼は起き上がり、長い指で眼を擦り、ぶつくさ言いながら戸を開けた。
 銀色の幕のような雨を背に、窓から娘が覗いていた。
 驚きのあまり、王子は声を上げることもできなかった。たっぷり一分黙った後にこう尋ねた。
「どうしたの、こんな雨の日に」それから付け加えた。「夏はもう終わったよ。きみも自分の塔に戻って休んだほうがいい。濡れたら羽がだめになってしまう」
「羽?」娘の大きな緑の眼がおかしげにまたたいた。「そんなもの、もう落ちちゃったわ」
 そして器用に身体を返して背中を見せた。長く青い髪の間に、むき出しの肩甲骨が覗いていた。王子は思わず眼を逸らした。なにか見てはいけないグロテスクなもの、他人の裸とか、大きな傷口とか、死者の顔を突きつけられたような気がした。
「なにびっくりしているの」と彼女は声をあげて笑った。「あなたの羽だってもうないのに。そら、ちゃんと起きて」
 そうして彼女は身体のしずくを振り払い、窓枠を超えて彼の部屋に入り込んだ。
「なんだよきみ、出て行けよ」大声を出して立ち上がったとき、背中が妙に涼しいことに気が付いた。ぎょっとして振り向くと、葉を編んだマットの上に自分の羽が落ちていた。羽は真っ白く濁り、ところどころ細い傷がつき、一度も使っていないのに縁はぼろぼろに朽ちていた。長い間信じていたよりずっと小さい羽だった。
「ぼくの羽が」ひざまずいて触れると羽は粉々に砕け、灰色の粉に変わった。
「ね、わかったでしょ」娘は驚かなかった。何もかも知っているのだと言わんばかりに頷いた。それからたったひとつしかないスツールに腰を掛けて説明した。わたしたちはごくたまに現れる、羽があっても飛ぶことのできない種族なの。だから、あなたが飛ばずに今まで時間を過ごしたのは正解だったのよ。
 王子はうつむき、ため息をついた。「ぼくはじゃあ、このままここで死んでゆくのか」
「まさか」女は開け放たれた窓のほうに王子の身体を押しやった。
 王子はあっと声を上げた。雨季の世界を、そういえば彼は一度も見たことがなかった。毎年鎧戸を閉めていたからだ。
 雨で増した水の中を、翼を持たない人々が楽し気に泳いでいた。雨脚はやさしく、窓脇ではじける雫は温かく、蜜に似た香りがした。
 窓から身を乗り出すと、白い花のついたつる草が水面まで伸びていた。彼女はこれを伝って上ってきたのだ。
「これに掴まって降りるのかい」
 言いながらてのひらに雨を受けた瞬間、胸が躍った。外に出たくてたまらなくなった。今まで感じたことのない気持ちだった。体ひとつでどんな遠くにでも行けそうな気がした。
「まさか」彼女は白い手を広げて見せた。長い指の間に半透明の水かきがきらめいた。「上るときだけよ。降りるときはただ飛び込めばいいの」
「そうか」羽根で飛ぶのはあんなに怖かったのに、水にはすぐにでも飛び込みたくてたまらなかった。「じゃあ、行こう」
「せっかちね。でも、何も知らずに長い“囚われの時”を過ごしたお姫さまや王子さまはみんなそうよ」
 白い体がふたつ、塔の窓から身を躍らせた。ひときわ大きな冠形のしぶきが上がった。
 それから王子は彼女に連れられ、一人きりの時間につくった物語を語りながら、仲間たちのもとへ泳いでいった。



FIN

Kohana S Iwana
2023/11/06~2024/05/01