楽しい処
わたしは学校に入れなかった。
お父さんもお母さんも、もちろんわたしも、こうなることは分かっていた。
お父さんはずっと前から、きっとわたしが物心つく前から覚悟して、心の準備をしてきたと思う。だけど、お母さんはそうではなかった。お母さんはわたしが普通の、他の子たちと変わらないと必死に思い込もうとした。だから布張りの無地の本や、いつかこの世界に迷い込んだ鳩の羽根で作られたおもちゃや、水を織った布で仕立てたアイスグリーンのワンピースをわたしに買い与えた。
でも、本のページには文字ひとつ現れず、白い羽虫が宙を舞うことはなく、霜のレースで飾った水のよそゆきは、わたしが手を触れた途端崩れて足元に流れ落ちた。
乾かそうとお母さんは小さな火を呼び出した。だけど、ゆらめくオレンジの火をいつまでも帰そうとしなかったから、お父さんが気が付かなければ、わたしも絨毯も黒く焼け焦げてしまうところだった。
「あなたはできないんじゃない、しないだけなのよ」それがお母さんの口癖だった。「お母さんはわかってるわ。あなたはただ、力を使うのが怖いだけなのよね」
わたしもたまに、自分は普通の子と同じか、実はそれ以上の力を持っているんじゃないかと考えることがあった。お母さんの言う通り、できないんじゃなくてしないだけで、ただ、きっとそう、たとえばなにかが怖くて他の子と同じにできないだけなのだ。
精神的なショックのせいで力を失う、というのはよく聞く話だった。たとえばお父さんの妹、つまりわたしのおばさんは、わたしが生まれる少し前に戦争に行き、世界の果てで怖ろしいものをたくさん見て、そのせいで力を使えなくなったのだそうだ。
おばさんは今、王さまからいただいた田舎の小さな一軒家に暮らしている。屋根には鳥が巣をつくり、窓辺にグレイの猫が寝ていて、庭には花が咲き乱れている、そんな家だ。
だけどどんなに考えみても、わたしは力を失うほど怖い思いをしたことなんて一度もない。ただ、生まれつき人並みのことができないだけだ。
生まれつきの人間は、勲章も家も、一生かかっても使い切れないほどのお金も貰えない。代わりに七歳の誕生日からかぞえて最初の夏至の日に、わたしたちのような子どものためにつくられた、特別な場所に行くことになっていた。
わたしが学校に入れないと知ってから、お母さんは雲のベッドにもぐりこんだままだった。
出発の前日、心配したおばさんが列車を乗り継いでやって来た。うす茶の巻き毛を背中に垂らし、生きたままの蔓薔薇と羊歯のドレスを纏ったおばさんは、戦士よりはいにしえの女王を思わせた。
お父さんと三人で、果物と野菜と豆とミルク酒と、オレンジのソーダの夕食を愉しんだあと、おばさんの話を聞いた。
この世界の国の果てに立ちこめる灰色の霧の中で、おばさんは三か月間怖ろしい魔物と戦った。おばさんが戦いに志願したのは、戦士だった恋人の仇を討つためだった。力と勇気に恵まれたおばさんは襲い掛かる泥色の怪物なぎ倒し、まとわりつく黒い魔物を蹴散らした。
左腕を切り裂かれながら敵の小隊長を倒した話は、特に男の子たちから人気があった。おばさんの腕にはその時の痕がまだ残っている。闇に棲むものにつけられた傷は、わたしたちの力でも完全に消すことはできないからだ。
この話を聞くのは初めてではなかった。おばさんの十八番だったし、わたしは他の女の子たちと違って戦争の話は嫌じゃなかった。そしてなによりお母さんが、血の繋がった女英雄の話をわたしに聞かせたがったからだ。
でも、その日のおばさんの話は初めて聞くものだった。
「火の番をしていると、辺りの空気が揺らいで村が見えたの。花の咲く生垣に囲まれた風変わりな家が並んでいて、おかしな服を着た人がのんびり通りを歩いていた。その人がまっすぐこっちに近づいてきて、わたしにぶつかりそうになったの。
驚いて立ち上がると、ものすごい力でその幻に引っ張りこまれそうになった。敵の罠だと思ったから、近くの岩にしがみついて必死に抵抗した。どれくらいの時間が経ったかはわからない。気が付くと村は消えて、わたしは力を失っていたの。
わたしがこうなったのはね、戦いで怖ろしい思いをしたせいじゃなくて、あの幻から逃れるために力のすべてを使ってしまったのからなの。この怪我だって、見た目が派手なだけでたいして深くはないのよ。幻を見た時には治っていたんだから」
それからおばさんは、その幻の中に見たすべてをわたしに語ってくれた。そしてこう締めくくった。
「あれがいったいなんだったのかはわからない。ただ、なんだか楽しそうな処だったわ」
翌日、お父さんはわたしにお金の詰まったお財布と着替えを、おばさんはわたしに魔法の花を捺した銀のお守りを持たせてくれた。
「失くしてもいいのよ」とおばさんは言った。「失くすくらいがいいの」
言葉の意味が分からなかったのは、生まれつきわたしに力がないからだろうか。
お父さんが車で駅まで送ってくれた。お母さんはまだ起きてこないので、万が一のことを考えておばさんは家に残った。
「お母さんのことは気にしなくていい」とお父さんは言った。「ほんとうはお母さんも、今日見送りに来たかったと思うよ」
お父さんの力はいつも強くてまっすぐだ。だから車もそんなふうに走る。お母さんの運転はふわふわしている。おばさんは昔は“とばし屋”だったのだそうだ。わたしに力が使えたら、どんなふうに車を運転しただろう。
白樺の壁と氷の窓と虹の屋根で作られた駅には、わたしと同い年、つまり七歳の夏至を迎えた子どもが集まっていた。わたしはびっくりした。ひとつの街に、力を持たない子が年に十三人も生まれているなんて思いもしなかったからだ。
その日は切符を買う必要がないと知ってがっかりした。旧式の手動券売機はわたしが使える数少ない機械だったし、ボタンを押してレバーを引いて、下の穴から紙の切符を取り出すのが好きだった。
実は、駅の券売機は去年から新式のものに変わっていた。ローズ色の新しい機械は、指先にわずかな力を集めて行き先を選ぶ仕組みになっていて、わたしやおばさんには使えない。だから水色の旧式のものも一台だけ残っている。その日、水色の手動券売機がきれいに塗りなおされているのを見て、わたしはちょっと嬉しかった。
わたしたちを待っていたのは特別あつらえの列車だった。行き先はなかった。夜明け前の空のような濃い青色に塗られていた。家族はホームに入ることができなかった。
「持ち物はそのままで」長い巻きひげに金モールの駅長さんが大声で呼ばわった。夏至のたびにこの仕事をしているのだから慣れたものだ。「乗ったらすぐに席に着いてください」
そして、幾度乗せても泣いて飛び降りる男の子を容赦なく客車の奥に突き飛ばし、穏やかな口調からは想像もつかない荒々しさで扉を閉めた。
発車のベルが鳴った。
「では、出発」
お弁当はなかった。飲み物もおやつもなかった。わたしたちは開かない窓にしがみつき、遠ざかる改札の向こうの、涙で見分けのつかない人影に手を振った。
車内は子どもだけだった。誰も、何も言わなかった。突き飛ばされた子のしくしくというすすり泣きだけが響いていた。夏至の正午の列車に乗って、戻ってきた子はひとりもいないと皆知っていた。
わたしたちはどこか遠くにやられるのだ。
†††
「それで」紅茶の湯気の向こうで彼女は言った。「気が付いたらこちらの世界の、ごく普通の七歳の女の子になっていたんです」
袖をめくると、肘の少し下のところにあきらかに刺青ではない、花の形の痣があった。カラスノエンドウにもスイートピーにも、見ようによっては鈴蘭にも似ている。どれもこの地方の所謂『あちら側に棲む人びと』の好む花だ。彼女によれば、例のおばさんのお守りが肌に焼きついたもので、このおかげで向こうのことを忘れずにいられるのだという。
「信じられないですよね、当然だわ」彼女は笑った。「わたしだって向こうにいた時、おばさんの話を信じなかったんですから」
「それは、戦場での活躍のことですか」
「いいえ、おばさんが見た幻のこと」そして彼女は、窓の向こうに広がるなんの変哲もない村の風景を、黄色い花咲く生垣の上から覗く、結いあげた頭やひなびた麦わら帽子を眺めた。ご婦人方のかしましいいおしゃべりの中に、私と彼女の名が混じるのがたしかに聞こえた。
「あれは、こちら側のことだったんだわ」
「それで、あなたもここは楽しい処だと思いますか」
私が訊くと、かつて魔法の国の住人だったという娘は満面の笑みを浮かべてこう答えた。
「ええ、とても」
彼女のように、二度とは会えない恋人のように、私はこの世界を楽しいとも魅力的とも思えなかった。だから、かつて自分が魔法の国の戦士で、重傷を負ってこちらの世界に引き込まれ、戻れずそのまま棲みついたのだと打ち明けることはできなかった。
これ以上面倒な噂が立たないうちに、私は彼女の家を辞した。そして、こちらでは魔法とか超能力とか呼ばれている力は使わず、なんと面倒なのだろうとうんざりしながら埃っぽい道をだらだら歩いて宿に戻った。
FIN
2024/05/05
Micage S Iwana