求婚

  雪の上にペンが落ちていた。
 見つけたのは大雪の降った次の日の朝だった。おかしなことだと思った。雪はぼくがベッドに入るころ、つまり夜半過ぎにはまだ降っていたからだ。
 ペンはふんわり積もった雪の上に、なかば埋もれて刺さっていた。ということは、このペンを誰かがここに落としたのは、雪がやむ間際ということにならないだろうか。もし雪の降る前であれば、ペンはすっかり雪に埋もれて春になるまで見つからなかったに違いない。
 ぼくはペンを注意深くつまんで取った。積もったばかりの雪の上に、歪んだ深い穴ができた。午前も半ばの光が差して、穴はコバルト色に染まった。
 子供のころ、初めてこれを見た時に、父が光の反射で青く見えるのだと説明してくれたことを思い出した。なぜ光の反射でそう見えるのか、当時まだ学校に上がったばかりの子どもだったぼくには分からなかった。父はそのあと、海や空が青く見えるのと同じだと付けくわえたが、やはりピンとこなかった。
 けっきょく父はそれ以上は教えてくれず、四年前に他界した。特に科学が好きだったわけではないぼくは、それ以上父に訊こうとも、自分自身で調べようともしなかった。だからなぜ雪の穴がコバルト色に染まるのか、正直今も分からない。
 ぼくはペンの雪を払い、そのまま家に持ち帰った。その日は仕事は休みだったし、どのみち体面を保つためにやっているだけの仕事だった。父から受け継いだこの小さな屋敷に住み、両親が残した財産をしかるべきところに預けていたので、働かずとも、贅沢をしなければ一生食べてゆける計算になっていた。金をつぎ込むような趣味はなかったし、女遊びをしたいとも家庭を持ちたいとも思わなかった。ぼくは稀に見る無欲で無気力な人間なのだ。
 ひとりには広すぎ、ぼくのような人間には明るすぎる居間で改めてペンを眺めた。真っ青な、硝子とも金属ともつかない美しい素材でできた太いペンだ。渦にも蔓にも見える銀の筋が全体を取り巻き、その筋がガイドになるのか、不器用なぼくでも自然に正しく持つことができた。蓋を取り、試し書きをしようと手近のメモ用紙を引き寄せた。
 正方形の白い紙に、ぼくはまずこう書いた。

“雪の上にペンが落ちていた。”

 まずまずの書き心地だ。インクはやや明るいブルーブラックで、滑りは少し良すぎると思った。
 次にこう書いた。

“見つけたのは大雪の次の日の朝だった。おかしなことだと思った。雪はぼくがベッドに入るころ、つまり夜半過ぎにはまだ降っていたからだ。”

 これはただの日記だな。悪くはないがつまらないと思った。そこで行を変えてこう書いた。

“実はぼくは、ベッドに入ってからも眠ることができなかった。安楽だが退屈な生活に嫌気が差していたのだと思う。かといって冒険をする勇気もぼくにはなかった。”

 へえ、そうだったのかとぼくは思った。ぼくは今の生活に嫌気がさしていたのか。まあ、毎日が退屈で仕方がないのはたしかだった。

“そこでぼくは起きだし、カーテンを開けて窓の外を見た。雪はやみ、東の空から濃い金色の光が差しはじめていた。朝の陽は切れてゆく青黒い雲を薔薇色に染めた。雲の間に明るい銀の星がひとつ光っていた。
 見とれていると、庭のほうで物音がした。屋根から雪が落ちたのだろうと思ったが、どうもそうとばかりはいえないような音だった。猫だろうか。まさか人だろうか。胸騒ぎを抑えつつ、起きだして居室に向かった。あそこの窓からなら庭がもっとよく見えるはずだ。
 暗い廊下を手探りで進み、明かりをつけずに居室のカーテンをそっと開けた。
 庭の、ちょうどペンを拾ったところに人が立っていた。朝の陽が明るくなりだしたころだったから、その人の様子がよく見えた。女だった。髪を結い、グレイのコートを身にまとい、温かそうなボアのブーツを履いていた
 彼女は積もった雪の上に屈み込んでしきりに手を動かしていた。あまり長い時間ではなかったと思う。そして、作業を終えるとそっと庭から出て行った。門は細く開いていた。”

 ここまで書いて、ぼくは自分の文才のなさにうんざりした。これが物語だとしたら、この時点でまだペンを手にしてはいないのに「ちょうどペンを拾ったところだ」と書くのはおかしくはないだろうか。それともこんなふうに話を繋げてゆくのは許される手法なのだろうか。本を読むのが特に好きというわけではないから、よく分からない。それでも門が開きっぱなしというのは不自然に違いなかった。ぼくには素人作家の才能すらなさそうだ。

 かよいの家政婦が来るのは午後からなので、自分でパンを温め、コーヒーを淹れて昼食とも朝食ともつかない簡単な食事を済ませた。腹がくちくなると、自分のメモの内容が気になってきた。拙い創作の中に書かれた女はあそこで何をしていたのだろう。知りたければ自分で考えればいいだけのことだ。しかし‥‥
 ぼくは立ち上がり、コーヒーの残りを飲み干し、庭の、彼女のいた場所に向かった。その前に門をたしかめずにはいられなかった。
 屋敷の規模と比べて不釣り合いに物々しい黒い門は、子供か小柄な女が滑り込めるくらいに細く開いていた。
 ぼくは舌打ちをし、自分で門を閉めて錠を掛けた。家政婦もぼくも裏門から出入りしているし、ここひと月ほど来客はなかったはずだ。ずっと閉め忘れていたのだろうか。
 ともかく女がいた処、つまりペンを拾ったあたりに向かった。雪は既にところどころぬかるんでいたが、塀や木の陰になっているあたりは溶けずに硬くなっていた。その、青っぽく凍った雪の中に細長い小箱があった。
 こそどろみたいに周囲を確かめ、箱を雪から掴み出した。自分の庭に落ちていたものを拾ったって何の問題もないはずだ。そうだ、これは不法投棄だ。むしろこっちが被害者なのだ。小心なぼくは自分にそう言い聞かせた。
 箱は汚れても濡れてもいなかった。枝から降りかかったと思しき粉雪を払いつつ居室に戻り、暖房と日差しで温まった居室のテーブルの上、メモとペンの傍に箱を置いた。あきらかにペンと揃いの、青い硝子か金属に銀の飾りをつけた小箱だった。振るとかさかさ音がした。
 長く迷ったあと、震える手で箱を開けた。蓋は小さな金具で留めるようになっていたが、鍵はついていなかった。
 中には折りたたまれた紙が数枚入っていた。
 紙を開いた。ブルーブラックのインクで物語が書かれていた。簡単な筋だけだったが面白く、心温まる話だった。はらはらさせるする要素もあったが全体としては穏やかで、何より愛とやさしさと、そして誠実さに満ちていた。
 ぼくは紙をたたんで箱に戻し、髪を整え、服を着替えてチャコールグレイのコートを着た。そして一度も行ったことのない裏通りの古書店に向かった。
 そこでぼくはとある女性と出会うことになっていた。彼女と恋に落ちて結婚をし、幸せな家庭を築くことになっていた。事業を始め、すぐに大きな失敗をするが二年で持ち直すことになっていた。
 こんな当たり前の物語がぼくは気に入った。そしてなにより、自分がこれから掛ける魔法をこんなふうに教えてくれる、彼女の不器用な誠実さを好ましく思った。


FIN
Konhana S Iwana 
22023/11/07~204/05/07