橋を渡る

  ぼくは橋の上に立ち、水面をじっと見つめていた。水面ははるか下、ぼくの背丈の十倍くらいの処にあった。落ちればきっと命がないくらいの高さだ。仮にぼくが泳ぎの名人だったとしてもだ。
 でも、ぼくは自分が泳げるかどうか分からなかった。そもそも自分が誰で、なぜこんな処にいるのか分からなかった。こんな処で、なぜ欄干に片膝を乗せて身を乗り出しているのか分からなかった。長い夢からたった今覚めて、我に返ったような気持ちだった。
 我に返った僕はびっくりして膝を下ろし、その反動で後ろにひっくり返った。けっこう威勢よくしりもちをついた。
 じりじり痛む尻と尾てい骨撫でながら、ぼくはあたりを見回した。
 白っぽい木でできた、長い橋だ。たった今架けられたように、しみも汚れも傷もなかった。
 ぼくはまっすぐに立ち、右を見て、左を見て、それからもう一回右を見た。子供のころ、横断歩道を渡るときにそうしなさいと言われたのを思い出した。それから、もう一度左を見なくていいのかなと考えていたのを思い出した。でも、左を見ればまた右を見たくなり、そうすると一生左右を順に確認したくなってしまうはずだから、ぼくは左を見なかった。
 ともかくその橋の右も左も、全く同じように見えた。水の上をどこまでも、大袈裟に言えば地平線までずっと橋が続いているのだった。こんな長い、高い橋をどんなふうに架けているのか、建築に疎いぼくにはさっぱり分からなかった。そして、どちらに行けばいいのかも分からなかった。ともかく分からないことだらけなのだ。
 欄干からそっと下を覗くと、眼のくらむような藍色の水がきらめいていた。水はたゆたい、泡立つ渦を巻いてはほどき、ゆるゆるとうねっていた。あれに呑まれたらどんな泳ぎの名人でも命はないだろう。さっき我に返ってよかったと思った。
 ともかく命拾いをしたわけだが、これから自分はどちらに行けばいいのだろう。いや、その前に、ぼくはいったい誰なのだろう。

 ぼくは、というからには自分はきっと男なのだろう。足を見ると薄汚れた運動靴を履いている。服は明るいグレイの地に真っ赤なラインの入った体操着だ。腕や脚に筋肉はついていたが、大人の男性のように立派なものではない。念のために言うと胸のふくらみもなかった。まあまあ鍛えた男子中学生あたりといったところだ。
 服装から見て、部活動の練習を終えて帰る途中だったのだろうか。ということは今は夕方なのだろうか。
 そう考えた途端、空が薄暗くなり、水平線の近くが濃いオレンジ色に染まった。夕焼けだ。海は(と言ってしまっていいだろう)沈む太陽を映して燃えるように輝いていた。
 しばらく見とれたあと、ぼくはぎょっとした。夕方の次には夜が来る。夜になれば足元が見えなくなる。そうなる前に陸に着いたほうがいい。
 ぼくは十回くらい右と左を交互に見て、右も左もごっちゃになり、最後に太陽のほうを向いて左へ行くと決めた。つまり南だ。南のほうがいいことがあるような気がした。北よりは暖かだし、そのへんに木の実もいっぱいなっているだろうし、魚なんかも手づかみで取れそうだった。部活動の帰りにいったい何を考えているんだろう。
 気持ちが固まればあとは早かった。ぼくは(具体的はわからないが)ともかく運動部なのだろうから、たぶん足は速いはずだ。きっと同年代の普通の子より体力だってあるはずだ。そんなことを考える前に脚は走り出していた。暗くなり、何も見えなくなり、動けなくなる前に時間を稼がなくてはならないのだ。
 橋は蹴るたびにぎしぎしと鳴った。あまり揺れないのがありがたかった。なるべく音に注意を向けないようにした。もしもなにかのはずみで橋が揺れて、よろけたはずみに欄干を超えて落ちてしまったら、そう考えただけで身動きが取れなくなりそうだった。
 やがて陽が沈んだ。ありがたいことに、太陽が見えなくなると同時に東の空に月が昇った。青みがかった銀色の、巨大な満月だった。ぼくの国ではうさぎに、他の国では蟻とか女性の横顔になぞらえられる灰色の模様まではっきり見えた。ということは、ぼくは日本か中国の人間なのだろうか。運動部の少年らしくないことを考えながらぼくは走り続けた。
 空も海も、月明かりを浴びて美しく輝いていた。空には少なくとも今のところは、雲ひとつないようだった。ぼくは少し速度を落とした。今の不安は陸に着くまで起きていられるかということだった。橋の上で眠るのはぞっとしない話だった。疲れ切る前に、月が隠れる前に、雨が降り出す前に、この橋を渡りきりたかった。

 そうしてどれくらい走り続けただろうか。何時間も、何日も、飲まず食わずで橋を渡ったような気がした。その間には恐れていたとおり雨が降ったり、ひどい強風が吹いたりした。気を失うように眠ってしまったこともあった。そしてやっと、海以外のものをぼくは眼にすることができた。
 島だった。明るい緑が真っ白い砂浜に囲まれている、小さな島だ。いかにも南のものらしい木が幾本も生えていた。木にはいつか絵で見たような金色の実がなっていた。
 そんな島が海の上に無数に浮かんでいるのだった。濃紺だった海は、いつの間にか明るいエメラルド色に変わっていた。
 島々を前に僕は跪き、欄干を握って声を上げた。島は橋の下にあった。そして、橋のゆくては相変わらず水平線に掻き消えていた。
 ぼくはもう疲れ切っていた。ここでこのまま死んでしまうのは嫌だと思った。もしかして、海に身を投げればあのどこかの島に打ち上げられるのかもしれなかった。

 ぼくは欄干に片膝をかけ、ぐいと身体を手前に倒した。

 気が付くとベッドの上にいた。消毒薬の匂いがした。頭の上で点滴の袋が揺れいていた。病院だった。腕と脚と胸とくるぶしに包帯が巻かれていた。
 ベッドのわきに両親がいた。ぼくは横断歩道を渡っていて車にはねられたのだった。

 ゆっくりと自分のことを思い出した。ぼくは高校二年の男子だった。成績はそこそこだった。仲間と呼べる友達がいた。それから親友がひとりいた。でも、彼は一年半前に死んでしまった。親友だと言いながら、ぼくは彼を助けることができなかった。

 ぼくと彼とは正反対だった。彼は陸上部で、ぼくは英語部だった。彼は走るのが好きで、ぼくはいつも机に向かって辞書ばかり引いていた。
 ぼくたちが出会ったのは中一の、夏休みが終わったばかりの火曜の昼休みだった。ぼくはいつものように、教室の隅でひとり洋書に取り組んでいた。校庭から他の子たちのはしゃぐ声が聞こえていた。薄いカーテンを揺らす風が心地よかった。もう九月だったが、空にも空気の匂いにも、まだの夏の気配が残っていた。
「なにしてんの」不意に窓から覗き込んだのが彼だった。彼は額いっぱいに汗をかいて、口を大きく横に伸ばして微笑んだ。それから運動靴のまま、窓枠をひょいと飛び越えて教室に入ってきてしまった。ぼくはびっくりして口もきけなかった。
「すげえ」彼は僕の手にしているイギリスの児童書を覗き込んでいった。「おまえ、そんなの読めるの?」
「‥‥辞書を引きながらだよ」ぼくは本を手で覆いながら答えた。表紙には明るい色彩で、いかにも南の島に生えていそうな木と、まっさおな海を見つめてたたずむ少年が描かれていた。南の島を舞台にした未訳の児童小説だった。そんな子供っぽものを読んでいるのを見られて恥ずかしかったから、ぼくはちょっと気取って言った。「児童書なんて趣味に合わないけど、語彙力を上げるにはちょうどいいんだ」
「へえ、かっこいいなあ」と彼は言った。
 それからぼくたちは時々話をするようになった。話はしなくとも、日に一度は挨拶をするか、遠くから手を振りあうようになった。彼はたいてい部活仲間と一緒にいて、そうしたときはぼくはなるべく近づかないようにしていたが、一人でいるときはけっこう話をした。幾度か一緒に帰ったこともあった。英語の宿題を手伝ったりもした。お礼に彼はプロテインバーを分けてくれたり、疲れにくい走り方を教えてくれたりした。
 そんな彼がふいにいなくなったのは、中学三年の夏休み前だった。学校近くの、できたばかりのつり橋から身を投げたのだ。
 理由が分かったのは何か月もあとだった。彼は部活ひどいいじめにあっていたのだ。ぼくは気づいてやれなかった。でも、彼はぼくに気付いてほしくなかったのかもしれなかった。
 葬式で、彼の部活仲間がおいおいと泣いていた。彼らはどうしてあんな風に泣いたのだろう。自分たちの行いを後悔したからだろうか。こんな風になるとは思わず、驚いたのだろうか。それとも大変な結果になって、自分たちのいじめがばれて、受験が不利になるのを恐れたのだろうか。
 ぼくは泣くことができなかった。
 彼がいつかくれた外国製のチョコの箱を、ぼくはずっと持っていた。そして彼がすごい、と言ってくれた英語の勉強を続けていた。ぼくが進んだのは英語科のある高校だった。そこでは中学よりも気の合う友人ができやすかった。生まれて初めてできた仲間たちと、ぼくは辞書や参考書や洋書や英字新聞を手に静かに語り合った。
 今も年に数度、ぼくは彼の墓参りに行く。でも、彼が身を投げた橋にはまだ一度も足を運んでいなかった。

 ギブスが外れ、リハビリも終わり、ステッキを使わなくても歩けるようになると、ぼくは初めてその橋へ行った。欄干を握って渦巻く水面を見下ろした。彼はどんな気持ちでこの藍色を眺めたのだろう。
 陽が沈み、西の空から巨大な銀の月が昇った。英語の詩を暗唱しながら、ぼくはゆっくり橋を戻った。


FIN
Kohana S Iwana
2023/11/10~2024/06/04