最初の言葉

 お師匠様はわたしに卵を渡して言った。
「これを孵せればお前は一人前だ」
 そしてわたしは卵と、弟子のしるしの首飾りと、わずかな荷物とともに旅に出たのだった。

 旅の果てに落ち着いたのは、小高い丘の上に建つ小さな丸木小屋だった。長く空き家になっていたらしく、小屋は荒れ果て、人の代わりに栗鼠や野ねずみやきつつきが棲みついていた。
 中を片付け、塵を掃き出し、埃を拭き取り、窓に厚いガラスを嵌めた。動物たちは逃げ出して裏の林に新しい巣を作った。そのほうがあの子たちにも住み心地がいいと思った。
 魔法を使えばなんでもできたが、困ればすぐに力を使うのは好ましいことではないと教えられていた。でも、今は特別なんじゃないだろうか。だってこの卵を孵さなくてははならないのだ。そのためには、下の村に降りて買い物をしたり、家事をしたり、よその人とおしゃべりをする時間も惜しかった。今回ばかりは魔法に頼っていいはずだ。
 わたしの小屋は、だからいつも、何もしなくてもきれいだった。食べ物は料理せずともテーブルに並べられた。服は脱いだ途端、部屋の中をひらひらと飛び回り、その間にすっかりきれいになって勝手に畳まれ、衣装箱に収まった。お風呂の気持ちよさは捨てがたかったから、週に三度はバスタブを呼び出し、いい香りのする湯を満たした。
 こんなことに魔法を使っていては疲れてしまうのではないかって? そんなことはない。これくらいはわたしにとってままごとのようなものだ。なんといってもあの師匠の弟子なのだから。

 けれどもわたしは弟子失格だった。卵を孵すために、あらゆることを試みた。話しかけたり、温めたり、一緒に眠ったり、叩いたり、転がしたり、最後には癇癪を起して卵を床にたたきつけもした。でも、卵はびくともしなかった。真っ青な丸い卵は、昨日生まれたばかりのようにざらざらしていた。白や草色の模様は濃くも薄くもならなかった。
 荷物の中には修行について書き留める日誌があった。分厚い帳面はほとんど埋まっていた。お師匠様のところに弟子入りした日、真っ先に与えられたものだった。わたしは家から持ってきたペンを使い、小さな文字で、その日習ったまじないの言葉や、しるしやしぐさを書き込んでいた。最初に習った言葉は一番大切なもので、時の満ちるまでは使ってはいけないことになっていた。でも、その時がいったいいつなのか、お師匠様は教えてはくれなかった。

 ペンのインクがなくなるのと、帳面の最後のページを開いたのはほぼ同時だった。裏表紙の茶色が恐ろしかった。このページを埋めても卵が孵らなければ、わたしは弟子の資格を失う。そうなれば裏通りに占いやまじないの店を構えて、色付き石の腕輪やペンダントを売って暮らしを立てるほかはない。弟子から外された者は魔法の力を失うから、占いにもまじないにもお守りにも、気休めほどの効果も期待できなかった。
 こんなとき、ペンのインクが切れたのはありがたかった。ペンは父の形見だった。だから父が勇気づけてくれたような気がした。村の雑貨屋でインクを買えば、少しだけ絶望を先延ばしにできると思った。
 念のため小屋に魔法で鍵を掛け、長い坂を下りて行った。魔法が使えなくなったら代わりの錠を考えなくてはと思った。いつのまにか世界は冬になっていた。人目を気にしてコートを身に着けていたが、魔法を使うだけで充分に暖かかった。冬風を感じたくて頬には魔法をかけなかった。肌を刺す冷たさが心地よかった。

 村は消えていた。代わりにあるのは瓦礫と灰と、かつては人だった真っ黒い塊だった。わたしは驚き、哀しむ間もなく隣の町へと急いだ。もう普通の人間のように歩いてはいられなかった。そこはもっとひどかった。町自体が吹き飛んでいたのだ。わたしは国の都へと飛んだ。そこにはなにも、大地も空も海もなかった。
 消えた世界の縁に立ち、恐ろしい無の闇を、闇とも呼べぬ無を見下ろした。戦争で大地が燃やし尽くされ、それを見て怒った神が世界を滅ぼしたのだと思った。いや、人に罰を与える神などおらず、人の営みのせいで世界のバランスが崩れ、こんなふうに滅びてしまったのかもしれなかった。
 ともかく世界はもうなかった。先の世界の切れ端が、文字通りの虚空を漂っていた。そのうちひとつがわたしの小屋のある丘と、そのふもとの村と町と、この都なのだった。

 わたしは小屋に戻った。幸い、力は失われていなかった。今朝うっかり床に落とし、拾ってベッドの上に放った卵が(わたしの卵の扱いはずいぶんぞんざいになっていた)、ひびひとつなく置かれた場所に鎮座していた。
 もうすべてが終わったのだ。襟元の首飾りに手が伸びた。お師匠様はこのことをご存じだったのだろうか。飾り気のない、茶色い金属の鎖を指でひねると、ある考えが頭の奥にひらめいた。
 わたしは日誌を掴み取り、一番初めのページを開いた。あの日、最初に習った呪文に眼をやった。そしてすべてを理解して、その言葉を大声で唱えた。

「ひかりあれ」

 卵にみるみるひびが入り、目もくらむような光が放たれ、新しい世界が生まれた。


FIN
Kohana S Iwana
2023/11/11~20204/07/21