おれの本屋

 今どき書店ははやらない。そんなことはおれだって分かっていた。特にこんな、小さくも大きくもない、適当に人がいて適当に都会に近く、適当に賑やかな中途半端な町ではね。
 こんな町では、若い子たちは休みには鉄道を使って大きな町に繰り出すし、賑やかに見えてもほとんどの住人は仕方なく都会から移り住んだ人たちで、そうした人にとってこの町はただ寝起きするだけの処でしかない。そして、わざわざ金と時間を使って隣の隣のその隣の都会まで買い物に行くなんて面倒だ、という人は、大きな駐車場があって最新のものや流行りのものは何でも揃うショッピングセンターを使うのだ。
 最近できたショッピングセンターは、そのチェーンの中では最も規模が小さいらしいが、それでも書店は入っていた。もちろん売れ筋のものはたいてい揃っている。週刊誌とかファッション誌とか、文学賞を取った作品とか、つい先週なんとかいうタレントが自分の愛読書として紹介していた小説とか、そういうのはね。だけどそれだけだ。そんな店はつまらないなあとおれは思う。でもけっきょくそこで食料品とオカルト雑誌を買ったのだから、つまらなくても便利だってことだ。
 そのオカルト誌はメジャーなものではないから、置かれていたことにびっくりした。多分おれみたいな、どうしても毎月買うんだという人間が一定数要るんだろう。やはり大手はそうした情報をちゃんと掴んでいるのだ。
 ない本だって注文すればすぐに届くらしい。そもそも最近はネット書店や電子出版も、認めたくはないが普通になってきている。どう考えてもお手上げだ。分が悪い。おれだってつい最近まで、自分の欲しい本はネットで買っていたのだ。
 なのにおれは、幸先の良くないその書店という商売を始めることになった。理由は簡単だ。父が死に、母が病気で倒れたからだ。母は入院と治療を経て一命をとりとめたが、普通の人よりずっと早く介護施設入りになってしまった。
 もしおれが結婚して、いい奥さんでもいれば家で介護できたんだろうか。そんな家庭はたくさんある。しかし、そんな大変な仕事を奥さんに任せていいものだろうか。おれはやはりプロに頼むほうがいいと思う。だけどけっきょくおれに奥さんはいないし、医者からも母親は施設で暮らす方がいいと言われていた。
 長くなったがそういうことだ。つまり、親がやっていた書店をおれが引き継いだのだ。
 両親ともにあの世に行ってしまえば店を閉めることもできたのだろうが、母は身体は弱っても頭だけははっきりしていた。しきりに店はどうなっていると訊くものだから、おれが切りまわしてゆくより仕方なかった。

 おれが外堀を埋められるようにして会社を辞め、(アパート出て、ということはなかった。おれは実家住まいだったからだ)店を引き継ぐと、案外お得意さんがいるのだと分かってきた。そのお得意さんにおやじは、バイクで本を配達して回っていた。
 お得意さんは年寄ばかりだったが、中にひとり、中学時代の同級生がいた。
 彼女はいつも本を読んでいた。おしゃれにはあまり構わないほうだったと思う。他の女子は先生にばれないように化粧をしたり、スカートの丈をつめたり、鞄にじゃらじゃらアクセサリーを下げたりしていたが、彼女はそうしたことを一切しなかった。物静かで、でもふいに感情を爆発させるようなところがあった。だから皆に敬遠されていたし、からかう男子や、あからさまに馬鹿にする女子も少なくなかった。おれはというと、はなるべく近づかないようにしていた。
 彼女は実家に住んでいるらしかった。今よく話題になっている、中年の引きこもりじゃないだろうか。昔の彼女の様子を知っていたから、そうなっていてもあまり驚かないなと思った。そういえば一度だけ開かれた同窓会にも来なかったし、彼女はかなり偏差値の高い進学校に合格したが、数日でやめてしまったという噂を聞いた。
 おれが、大学でしょうもないサークル活動や飲み会に明け暮れたり、ぶつくさ言いながら店を手伝ったり、親にうるさく言われてお見合いパーティーに行って食べるものだけ食べて帰ってきたり、冬にはスキー、夏にはキャンプに行ったり(そんな仲間もみな結婚して疎遠になってしまったが)、そんなふうに過ごしている間、彼女はずっと独りぼっちだったのだろうか。

 いや、勝手に妄想を膨らませるのはおれの悪い癖だ。

 彼女が定期購読している雑誌は五冊だった。けっこうなお得意様だ。おれも読んでいるあの月刊のオカルト雑誌と、それに‥‥
 こんなちっぽけな書店でも在庫や注文の管理にパソコンを使っていたから、おれは小さな店の隅っこで、高さの合わない机に向かい、亀のように首を突き出して画面を睨んだ。
 残りのうち、二冊はアメリカかイギリスか、つまり英語の雑誌。おれは大学まで出たくせに英語は読めなかったから、内容はよくわからない。あと一冊は、たぶんフランスの雑誌だろう。上や下に変な記号のついたアルファベットの並びの中に、そう読める単語があったからだ。しかし残りは‥‥
 ABCはある。しかし、そのほかに見たことのない記号が並んでいた。
 おれは幸いバイクの免許を持っていた。おやじのおさがりなんて格好悪い、と駄々をこねるような年齢でもなかった。おれだってもう立派なおじさんなのだし、これは仕事なのだし、配達のためだけにバイクを新調するのももったいない。
 よく整備された平らな道を、ぞっとするような深い堀に沿う細道を、迷路のようにくねくねと古い寺を取り囲む道を、おれは迷いつつバイクでまわった。ここしばらくのごたごたで配達が滞っていたから、事情を説明して頭を下げ、今回の代金は一切かからないこと、返品を受け付けること、これからは以前の通り配達することを一軒ごとに説明した。のんびりした地域のせいか問い合わせもなく、そのせいで配達の遅れに気付くのが遅れてしまったのだ。
 おれを責める人はいなかった。深く頭を下げてくれるおじいさん、飴やせんべいを持たせてくれるおばあさん、がんばってねとにこやかに言ってくれた奥さん、その場で包みを開けて大喜びする寝間着姿の男の子。この子は長く病気で外に出られないらしい。
 配達の最後、きつい坂を上った先に彼女の家はあった。彼女が購読している本の発売日はまちまちだったが、月に一度、例のオカルト誌の発売日に合わせてまとめて届けることになっていた。他の家もそんなふうで、だからという理由で配送料は無料だった。燃料費だってただではないのに、おやじはサービスしすぎだと思った。
 おれはバイクを停め、表札を確かめた。子どものころによくあった、きらきら光る青い瓦を使った二階建ての家だ。狭い庭がよく手入れされているのを見てほっとした。ほら、よく事件を起こす家はふだんから荒れているっていうからさ。
 道中舐めていた飴を奥歯で噛みつぶし、意を決してチャイムを押した。しばらく待つと、軽いぱたぱたという足音が聞こえた。
 星を刻んだすりガラスを嵌めた引き戸が、そっと、ほんの掌分くらい開いた。それから戸はすぐ閉じてしまった。
「どなたですか」と声がした。女性の声だ。
「I書店のものです」おれはつとめてにこやかに答えたが、愛想が良すぎたかと少し反省した。
「ああ」声はまだ不信そうだったが、そのひと言で察してくれたようだった。無理もない。父は先々月の配達日の深夜倒れてそれきりになったのだし、母の入院も突然だった。信じられないくらい忙しい二か月だった。おれはここでも配達の遅れについてお詫びをし、深々と頭を下げた。
 戸がゆっくりと開いた。薄暗がりに、ほっそりとした色白の娘が立っていた。
「あ」おれはつい声を上げた。「もしかして、Nさん? おれ、おぼえてない? 中学が一緒だった、ほら」
 彼女は頷き、本の包みを受け取った。
「元気そうだね」自分の声がうわずるのが分かった。その日は春で、彼女はクリーム色のゆったりとしたワンピースを着ていた。髪は後ろでひとつにまとめている。中学のころより顔は引き締まり、眼は猫のように鋭く、大きかった。同年代の女性と比べてかなり若く見えたが、耳のあたりには白いものが混ざっていた。それでおれはなんだか少し安心した。
「いまなにしてるの? ほらおれ、最近仕事辞めてさ、親父の店を継ぐことになったんだよね。それでいろいろ忙しくて配達が滞ってさ、ほんとごめんね」
 自分でも何を言っているのかわからないくらい緊張していた。改めて見ると彼女はけっこうな美人で好みのタイプだった。
 Nさんは頷き、丁寧なお悔やみの言葉を口にした。それから「うちの両親も三年前に他界して」と呟いた。きれいな声だ。それから彼女は少しだけ自分の話をした。在宅の仕事で食べているらしかった。うちのおやじは昔から、彼女のために無理をして海外の本を取り次いでいたのだ。だから今はネットで注文できるし、そのほうが早くて安いのだけれど、うちで買い続けてくれているらしい。ということはおやじは英語ができたのか。
「ほんとうにお父さまにははお世話になりました。これからもよろしくお願いします」
 彼女は頭を下げた。こんなふうに言うとすっかり気を許してくれた感じだが、彼女は終始無表情だったし話し方も事務的だった。仕事についても曖昧なことしか教えてくれなかった。フリーのライターか翻訳家というところだろうか。
「うんうん、こちらこそよろしく」おれは学生みたいにへらへらと笑っていた。

 あれから二年近くが経った。おれが店を継いで一年と二か月後におふくろが死んだ。最後まで本屋のことを気にしつつ、大変なら店を畳んでもいいと言ってくれた。おれはでも、もうこの店をやめるつもりはなかった。
 おふくろの葬儀にはNさんも来てくれた。白い肌に喪服がよく似合っていた。棺桶に花を入れる姿がきれいだった。おれはこんなときにいったい何を考えているんだろうと思ったが、一度彼女がお見舞いに来てくれた時におふくろが、お似合いねえと言っていたのがどうしても忘れられなかった。

 そして彼女は今、週に一度おれの店にやって来る。おれが配達をする間、店番をしてくれているのだ。だから「配達のため午後は閉店」の札は棚の上で埃をかぶっている。
 彼女が店番をしている時間帯はへんに来客が多い。取り寄せの注文も増えた。おれには読めない外国の本ばかりだが、彼女はさっさとどこかに発注してしまう。下手をすると国内の本より早く届くこともがある。
 一度、いつもより早く配達から戻ると、店から出てきたばかりの少女と鉢合せた。白い肌に大きな黒い目、艶のあるチャコールグレイのコート。腕にむくむくの子犬を抱いている。その日は夏の盛りだった。
「お得意さまよ」とNちゃんは言った。振り向くと少女は消えていたが、店に入り、改めて窓から外を見ると、通りを小走りに駆けてゆくところだった。フードが脱げてまっさおな巻き毛が背中にふわりと広がった。

 Nちゃんもおれもまだ独身だ。呼び方がさんづけからちゃんづけに変ったくらいで恋人ではないし、結婚も諦めている。どうも彼女は普通の人間ではないような気がするからだ。とはいえ、彼女の取る注文や、彼女のいるときにだけやってくる客のおかげで店の売り上げは順調に伸びているのだから大切な仕事のパートナーではあるし、彼女に惚れこんでいることに変わりはない。
 ひとつ気になるのは、おれの親父も彼女と同じように、普通の人間ではなかったのじゃないかということだ。ということは、その血を引いているおれも普通の人間とはいくらか違うということか。だから彼女は心を許してくれたのだろうか。

 わからないことだらけだが、ともかく今、すべてはうまくいっている。



FIN
Kohana S Iwana
2023/11/12~20204/07/22