誓い
そのノートを見つけたのは学校の、図書室の脇の小部屋だった。
わたしは十歳だった。なんとなく自分の毎日に、生きづらさというものを感じていた。
生きづらさなんて、今は眼にしない日はないくらいありふれた言い回しだが、当時はそんな言葉は使われていなかった。もし口にしたとしても首を傾げられるか、笑い飛ばされるか、こんな豊かで平和な時代に生まれていったい何を言っているの、とお説教をされるのがおちだった。
わたしの母の子供時代は、食べるものも着るものも不自由していたと聞く。戦争が終わって間もないころで、母の父、つまりわたしの祖父は戦地から戻るとすぐに、見よう見まねで農業を始めた。ヒヨコを譲ってもらって養鶏もやってみた。当然のことだがうまくいかなかった。売り物にはならなくても自分たちで食べるぶんには充分だったから、それでも恵まれていたと母は言った。
「夏はスイカばかりでね、それが全然甘くなくて、水っぽくて」
「サツマイモってね、お前、おいしいと思うでしょう。スイートポテトとか大好きでしょう。でもねえ、毎日それしかないと飽きるのよ。二度と見たくないと思ったくらい」
「じゃがいもは飽きなかったわねえ、毎日食べてもおいしかった」
更に祖母は戦争を直接体験した人だった。ごく短い間だったけれど、看護師として戦地に行っていたのだ。
当時、祖母はまだ十七だった。そのために戦後は口さがない噂に悩んだ時期もあったようだが、じっさいには仲間の兵隊さんたちに妹のようにかわいがられていたらしい。そこで出会ったのが九歳上の祖父だった。ふたりが仲間に祝福されてささやかな結婚式を挙げてすぐ、戦争が終わった。
ふたりは父の故郷の町で土地を分けてもらい、自分たちで家を建てた。子どもは六人生まれたが、ひとりは栄養不良で死んでしまった。わたしの母は三人目の子供だった。祖父は母が大学生のとき、無理がたたって急逝したから自分は会ったことはない。
そんな母や祖母からみれば、わたしの生きづらさなんて大したことがないに決まっていた。だから誰かに相談しようとは思わなかったし、相談してどうなるとも思えなかった。
わたしは本が好きだった。学校の図書室に毎日のように通っていた。母校には戦後間もなく建てられた旧校舎と、その後増築された新校舎があった。新校舎には一般教室と理科室や家庭科室。小さな旧校舎には職員室と図書室があった。新校舎にはヒーターが入ってたのに、職員室と図書室では大時代的なストーブを使っていた。火と煙と燃料の匂いのするストーブは金属のケージで囲ってあり、今思えば危ないような気もするが、乾燥対策を兼ねて雑巾が干してあった。職員室では洗った体操着を干す先生もいた。
放課後や昼休み、火の燃えるごうごうという音を聞きながら本を読んだり、借りる本を選んだり時間が好きだった。おしゃべりでどこにいっても友達を作ってしまうな母とわたしは正反対だった。
その日、いつものように本を借りて図書室を出た途端、躓くものもないのに転んでしまった。
西向きの窓からあざやかなオレンジの陽が差していた。本はワックスでつやつやした廊下を滑り、あっという間に濃い影の中に紛れ込んだ。わたしはうろたえて立ち上がり、廊下を右往左往した挙句、何を思ったのか自分でもわからないが、すぐ近くにある小さな扉に手を掛けた。
白く塗られた、何の変哲もないドアだった。上のほうに貼られた大きなプレートには、黒い字で『準備室』と書かれていた。字のすぐ下に塗りつぶされた跡があった。
鍵は掛かっていなかった。開けると湿った埃の匂いが鼻を突いた。どうしてこんなことをしたのだろうと思いながら閉めようとすると、つま先に何かが当たった。借りたばかりの本の片方だった。二冊借りたうちの薄いほうの本が、廊下を滑ってドアの隙間からこの部屋に入り込んだらしい。自分がこのドアに眼をつけたのは間違いではなかったのだ。
そのあと、廊下の隅の暗がりにもう一方の本を見つけた。わたしは本の埃を払い、傷み具合を確かめて(幸い何ともなっていなかった)バッグにしまうと家に戻った。
自分の部屋で本を取り出そうとして、おかしなことに気が付いた。三冊あるのだ。間違えて、貸出手続きをしていない本まで持ち出してしまったのだろうか。週末だから休み明けに返しに行かなくては。
しかし、一冊は本ではなかった。白っぽい表紙のノートだ。青いテープで綴じられていて、絵もロゴも何も見当たらない。表紙にはタイトルと名前を書きこむためのスペースがあったが、そこにも何も書かれていない。
小さなノートはかなり古いものらしく、あちこちに薄茶のしみが浮いていた。わたしは何も考えずにページを開いた。本好きな人間は綴じられている紙の束を見れば開きたくなるものだし、そこに書かれたものは無条件に読んでしまうものだ。
中にはびっしり細かい文字が書かれていた。大まかに言ってしまえば日記だったが、自作の詩や読んだ本の感想、感動した言葉や目標らしきものもあった。空きスペースはほとんどない。このノートが使われた時代はまだものが不足していて、持ち主の子はやっと手に入れたノートのページを少しも無駄にしたくなかったのかもしれなかった。
ノートは大きさの割に厚かったから、いくら読んでも終わらなかった。わたしは借りてきた本のことも忘れて読み耽った。途中、ぼんやりとした頭で洗濯物を畳んだり、夕食を食べたり、皿洗いの手伝いをしたりしたが、読書に夢中になっているときの常だったから、両親は特に気にしなかった。
ノートの書き手は女の子だった。当時の自分と同じくらいの年で、あの学校が旧校舎だけだったときの生徒だ。わたしと同じように本が好きだったけれど、当時の学校に図書室はなかった。代わりに職員室に専用の棚があり、そこから自由に借りて読めるのだ。年に数度、蔵書が増えると新しい本のリストが貼り張り出された。その子はリストを読むと、いつも真っ先に職員室に走った。
その子はわたしと同じように本が好きで、やはり同じように口数が少なく、友達がいなかった。大人数で騒ぐのが好きではないのだ。だから、いじめられていたわけではないけれど、学校ではいつも一人だった。家は兼業農家だったらしいが、そのあたりについてはあまり書かれていなかった。
日曜日に職員室から借りてきた本を読み終えると、彼女は愛犬のエスと一緒に山歩きに行った。家の裏にある山の、どの木の実が食べられてどこの沢の水が飲めて、どこに百合の群生があるのか、その子は誰よりもよく知っていた。
“エスがいなくなった”ふいに、他よりもやや大きく、乱れた字でこんな言葉が記された。
“ちゃんと鎖につないでおいたのに、学校から戻るとどこにもいない。お父さんにエスは? と訊くと、もう戻ってこないと言われた。それ以上はいくら訊いても教えては貰えなかった。夕食に肉が出た。赤くてかたい肉だった。肉を食べるのなんて半年ぶりだ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも弟も、おいしいおいしいと食べていた。わたしは食べられなかった。椀を置いて寝部屋に行った。もう二度と、どんな肉なんも食べるものかと思っている”
どきっとした。思い当たることがあったが、わたしはそのまま読み続けた。もともと本を読み始めると、わからない単語や調べ物は後回しにするタイプなのだ。
その子はそれから中学へ進み、更に公立の女子高に進学した。お父さんがいい仕事を見つけたらしく、学費には不自由しなくなった。日記や自作の詩は少しずつ減ってゆき、覚書や本の感想がほとんどになった。映画の感想も増えた。当時、この町には映画館があったらしい。
大学に合格したところで日記は終わっていた。彼女は奨学金を取って、遠く離れた街の、寄宿舎付きの大学に入ることになったのだ。次のページにこんな言葉が書かれていた。
“わたしはいままで無口で、友達がほとんどいなかった。
そんな自分がずっと嫌だった。
でも、これからは変わろうと思う。
全く違う自分になろうと思う。”
そのこから最後までの数ページは白紙だった。わたしはノートを閉じ、くらくらした頭のままベッドに入った。
「ねえ」翌日の朝、母に訊いた。「お母さんが昔買っていた犬、なんていう名前だっけ」
「犬? ああ、エスのことね。前に話したでしょ」母はラジオの音楽に合わせてフライパンの中のベーコンを動かした。「いきなりいなくなっちゃってね、近所のみんなで絞めて肉を分けて食べちゃったのよね、食べ物のない時代だったから」
そうして母はベーコンのかけらをつまみ食いし、上から卵を割り入れた。昨晩の夕食はポークカツだったし、あのときの誓いは過去のものになったらしい。
そのノートは学校に返すことも、母に見せることもできすに今もわたしの手元にある。なぜ母のノートがあんなところにあったのかは謎のままだ。
わたしは地元の中学に進み、母と同じ高校に行き、県外の大学に合格した。家を出る前の日の夜、久しぶりにあのノートを開いて最後の言葉を読み返した。自分はこれからどんな人間になってゆこうか、と考えた。
そのときなにを決心したのか、しなかったのかについては忘れてしまったが、今の自分はかなり生きるのが楽になったと思う。
FIN
Kohana S Iwana
2023/11/14~2024/08/24