春のあと
戦争は終わった。少なくともそう言われていた。そんな言葉を聞いたような気がした。そうだ、ラジオの声がそう告げていたのだ。
しかし、聞き間違いかもしれなかった。電波が弱いのか、なんらかの妨害を受けているのか、ラジオは雑音だらけだった。それに、長く激しい戦いの終わりを告げる声は奇妙にたどたどしく、ろれつが回っていないように思えた。
この放送は敵(とはいったいどこの誰だなのだろう)の工作で、戦意を削ぎ、安心させたところでとどめを刺そうとしているのかもしれなかった。
だから誰もラジオの言葉を信じなかった。
ラジオは信じられなくとも、絶えず注いでいた火の玉がやんだのは確かなようだった。大地を揺るがす爆音や、空を割く雷に似たびりびりという音も聞こえなかった。
子どもは身じろぎし、ラジオを点け、蜂の巣に似たスピーカーに耳を当て、信じがたい言葉を聞くと、すぐに消した。替えの電池はなかったから、大切に使わなければならなかった。
電池だけではない。食べ物も水もなかった。数日前まで非常用のビスケットが入っていたはずの缶を持ち上げ、逆さにして振った。昨日は甘じょっぱい粉が膝の上に落ちてきたのに、今はそれさえなかった。諦めて瓶を唇に当てた。舌の真ん中に霧雨よりも小さな雫がぽたりと垂れた。
それからまた、毛布とも上着ともつかないぼろきれにくるまり、丸くなった。あと少ししたら誰かが食べ物を持ってきてくれるはずだと思った。今迄そうだったように。でもそれが誰なのかも忘れてしまった。
そうして長い時間が経った気がした。喉は乾きでひりひり痛んだ。腹は空腹のため、絶えずなにかに殴られているようだった。乾いた唇を舐める、その舌にさえ水けがなかった。
大きく息を吸った。よろよろと立ち上がり、布切れを身体に巻き付けた。それでなにかを避けられるとも、なにかから護られるとも思わなかったが、少なくとも気持ちは落ち着いた。
壁に手を当て、這うようにして入口のほうに進んだ。上り階段があった。そうだ、この階段を誰かに担がれて降りてきたのだ。身体の大きな人だった。その割に声の高い人だった。掌に、星のような形の大きな傷があった。知らない言葉を話していた。だから最初は怖かった。違う言葉を話す人は、自分たちを殺しに来る怖ろしい人だと教わっていたから。
しかし、そうはならなかった。その人は布を敷き、子ども座らせるとそのまま行ってしまった。それから時々、食べ物や水を届けに来た。一度だけ、小さな声で歌をうたってくれたことがあった。その歌の言葉も節も、子どもの初めて聞くものだった。
その人が来なくなってどれくらいの時間が経ったのだろう。ほんの一週間かもしれなかったし、何か月も経ったように思えた。あの人も、別の言葉を話す人に殺されてしまったのかもしれなかった。
子どもはようやく扉らしきものの前にたどり着いた。力が尽きかけ、少し休んだ。
ズボンのポケットの中にチョコレートのかけらが入っていたのを思い出した。震える手で包みを剥き、口に入れると甘さでむせそうになった。喉の渇きは酷くなったが、少し戻った気がした。
身体を起こし、ノブらしきものに摑まり揺すっているとふいに手ごたえが消え、扉は向こうどすんと倒れた。
這い出した処は野原だった。そんなはずはないと子どもは思った。この辺りにはベランダに花を飾った集合住宅がひしめき、濃紺の空を映す硝子のビルが遠くにそびえ、通りをまっすぐ行ったところには、猫の額ほどの庭のついた自分の家があったはずだ。すべてが壊されたとしても、その残骸くらいは残っているはずだ。なにもかも粉々になるまで焼き尽くされたとしても、柔らかな草が地を覆い、どこかからせせらぎが聞こえてくるようになるまでには何百年もの時間がかかるはずだった。
水色の空で鳥がうたい、舞っていた。
子どもは黄色い花の群れに頬を押し付け、そのまま眠った。
†††
男はかつて兵士だった。いや、戦争は終わったと聞いたから、もう兵士とは呼べないのかもしれなかった。国というものが消えてしまったと聞いたから、もう何国人でもないのかもしれなかった。
それでも彼の話す言葉もうたう歌も、頭の中に詰まっている駄洒落や滑稽譚や昔話も彼の国のものだった。国がなくなったとしても、故郷の消えることはなかった。
彼は長く囚われていた。雪の降る荒野に建てられた、バラックだらけの町のような処だ。そこで目的もわからず穴を掘ったり材木を斬ったり、石を割ったりさせられていた。
食事はパンと雪だけだった。パンは皮は固かったが、割ると中は黄色くみっちり詰まっていて、味はおがくずを思わせたが食べごたえがあった。真っ黒いストーブはいつも小窓の奥でごうごうと火を燃やしていたから、仲間は皆その周りに集まり、積もったばかりの雪を溶かして飲んでいた。
仲間といってもここに来るまでは顔を見たこともない者ばかりだった。みな酷く痩せ、雪焼けのせいでどす赤い顔をしていた。言葉は通じたり通じなかったりだった。時々お前は敵だろうと喧嘩が起きたが、すぐ別の者が間に入って振り上げたこぶしを下ろさせた。
男はというと、ただパンを食べ、与えられた仕事をし、誰かの言葉にうんうんと頷き、夜は狭い寝台で寝るだけだった。
眼を閉じると故郷の夢を見た。食事中に流れる放送は、お前たちの国はもうない、この星にはもうどんな国もないと繰り返し囁いたが男は信じなかった。
ただ、彼はここでのくらしが嫌ではなかった。いくら国を守るためだといっても、何かを壊したり誰かを殺したりするのは気分のいいものではなかった。自分が殺されるのはなによりも怖ろしかった。今ここで辛いことといえば、背中と掌の傷の疼きくらいだった。
戦争が始まる前、彼は大学を出て間もない青年だった。仕事が見つからないので家の商売を手伝ったりぶらぶらしたり、いっそ金を貯めて海外に行ってみようかなどと考えたりしてていた。そんな時戦争が始まった。徴兵はなかったが、給料がいいと誘われ軍に入った。新入りは前線に行くことはないし、半年もすれば帰れるという話だった。
それなのにいざ入隊すると次々に新しい命令が下され、最前線ではないのかもしれないが、素人の彼にとってはかなり厳しい処に送られることになってしまった。訳の分からないまま高過ぎる背丈を丸めて塹壕を行き来し、銃を撃ち、まだ友達にもなっていない仲間が倒れてゆくのを見た。
そして気が付いたらここにいた。ここでの仕事もやっぱり訳が分からなかったが、少なくとも殺したり殺されたりはせずともよかった。それが彼にはありがたかった。
眠る前、男はよく、いつか廃墟となった街で出会った少女のことを考えた。
歳は十歳ほどだろうか。顔を真っ黒に汚し、髪を短く刈り、だぼだぼのズボンを履いていた。風呂に入り、髪を伸ばしてワンピースを着れば妖精のように愛らしい子に違いなかった。
こんな小さな子まで、身を護るために男の振りをしなければならいのが哀れだった。そうした話を彼はすでにあちこちで聞いていた。自分がたまたま彼女を傷つける側にいたのが、なにより居たたまれなかった。
男は少女を小さな地下室に連れて行き、その町にいる間、食べ物や水を運んでやった。しかし、ずっとそこにいられるわけではない。命令には逆らえなかったし、このことがばれて彼女が傷つけられるのが怖かった。荒っぽく陽気な、戦いさえなければ気のいい仲間たちとともにそのその街を出て半年後、彼は囚われたのだった。
解放は突然だった。いつものように床に就き、目が覚めると野原に横たわっていた。あの建物も、雪もストーブも、仲間たちも見当たらなかった。
脇に置かれた袋の中にパンの大きな塊と水の瓶が入っていた。
どこかでせせらぎの音がした。空を鳥が舞っていた。
春だ、と彼は思った。不思議ともあり得ないとも思えなかった。そのひと言ですべてが納得できるような気がした。
どこか人のいるところに行こうと彼は思い、立ち上がった。
†††
二体分の骨が見つかったというニュースを読んだ。
物騒なニュースだ。朝食を取りながら読むものではないだろうと一瞬思ったが、そうではなかった。三千年前の遺跡から出土したものだった。
おそらくは夫婦だろう。年の離れた男女で血縁ではなかった。どちらも人生の一時期、栄養状態の酷く悪かった時期があった。
発見場所は当時、墓地として使われていた丘だった。先住人類の終末期の棺桶に、遺体は収められていた。死んだ者を箱詰めにしてそのまま土に埋めるなど、たいそう野蛮で不衛生に思えるが、当時の人々は遺体を処理する技術を持っておらず、そもそも彼らの信仰がそうさせていたということだった。
私は先住人類の残した遺跡や遺物のイメージを呼び出し、しばし眺めた。
私たちの遠い先祖がこの星を訪れた時、彼らは滅びかけていた。未開の星でしばしば行われる、身内同士の殺し合いによるものだ。
彼らは細かく領土を区切り、各々の神を信仰し、それぞれ別の言葉を持ち、どちらが素晴らしいか、優れているか、劣っているかと争っていた。馬鹿馬鹿しい話だった。
しかし正直に白状すると、そう言いながら私は彼らに憧れている。彼らの文化は雑多で幼く、だからこそ豊かであるという気がする。本来豊かさとは、美しいものと優れたものと善いものでできているのではなく、醜さや幼や劣悪さを含むものではないだろうか。
丸いパンと泡立つミルクの朝食を済ませて身支度をした。うす紅色の上着を羽織り、銀色のタブレットを鞄に放り込んで布制の靴を履き、学生用のマンションを出て、緑に縁取られた真っ白い道を歩いてゆく。朝の陽が陶器の壁を金色に染め、硝子の窓が空を映してすみれ色の空をきらめいている。
かつてこの星にを支配していた人びとはもういなかった。滅びかけていた処に私たちの先祖が訪れ、愚かな行為をやめるように促したが、彼らが応えることはなかった。
彼らは私たちなどいないように振る舞い、私たちがこの星に取り戻した自然の隅で細々と生き、ゆっくりと滅んでいった。今は子ども向けの物語に登場する妖精にその面影を残すだけだ。
幼いころは妖精物語が好きだった。成長してからは彼らの考え方や文化や宗教にも興味を持つようになった。来年の春には隣りの大陸にある、最も保存状態のいい遺跡を訪れるつもりでいる。
両親はこんな私をいつも心配しているけれど。
FIN
Kohana S Iwana
2024/08/28