春を呼ぶ人
窓から遠くに光が見えた。あの下でまた大勢の人が傷つき、殺されたのだと思った。たった一度の閃光と爆音でいったいどれだけの人が死ぬのか、わたしには想像もつかなかった。
わたしは安全な場所にいた。お前さえ助かればこの国は続くのだと、常に言い聞かされていた。この国で最も地位の高い人間、つまり国王のたった一人の子だからだ。
しかし、そんな実感は少しもなかった。きっと育ち方が悪かったのだ。父が母をそう責める声を聞いたことがあった。
わたしは王と王妃を両親に持ち、貝殻になぞらえられる宮殿で十二歳まで暮らしていた。
わたしの国は長い間、安全な場所とはいいがたかった。遠い海の向こうの人々から見れば、ふたごのように似た隣国と、始終争いを繰り返していたからだ。
わたしが五歳の時、その国との間に稀少な金属が採れる鉱山が発見された。その金属は光にかざすと青みがかった虹色に輝くのだが、尊ばれるのは美しさのせいではなかった。この鉱山のために争いはさらに激しくなった。
諍いの種は挙げればきりがなかった。言葉も習慣も顔の造作も肌の色も、似ていれば似ているだけ憎悪のもとになった。
わたしたちの国は古く、建国の歴史は数千年の昔にさかのぼり、厳しい自然の中で独特のな文化を育んできた。宗教も言葉も唯一無二のものだった。もしもよく似た文化や宗教を持つ国があるとすれば当然のこと、われらの国から盗んだのだ。父も祖父も事ある毎にそう言っていた。
けれども母は違った。母はこの国を一度も出たことはなかったが、女としては珍しく学のある人だった。王に真っ向から反対することはなかったが、代わりに幼いわたしを膝にのせてお話を聞かせてくれた。
中でも特に気に入っていたのは、海や山の向こうに住む人々の崇める神さまの話だった。神さまはひとりではなく、動物の形をしていたり、人間よりはるかに戦争が好きだったり、年に一度集まって酒盛りをし、恋をしたり羽目を外して世界を壊しそうになったり、ときに人間に騙されたりした。絶対的な支配者で創造者でもあり、厳しい二十五の戒律を守れる者にのみ楽園を約束し、王を通して地の人々に戦いを起こさせる自分の国の神よりも、こうした人間臭い神々のほうがわたしには好ましかった。
次に興味を惹かれたのは四季、つまり、春とか夏とか秋とか冬というものだった。
わたしの国には夏しかなかった。ずっと乾いた暑さが続き、数か月おきに雨季が来た。だから厳しく長い冬も、そのあとに訪れる春の喜びもなかった。雪とは高山の頂に積もるものだった。平地に住むわたしは、そのため空を舞う雪を一度も見たことがなかった。外国に行くまでは。
わたしが海外に渡ったのは十三歳の時だった。隣国との関係はいよいよ厳しくなっていた。
母は以前からわたしを海外に行かせたがっていた。そこでわたしは名前を変え、お忍びで、ある国の学校に留学することになった。
入学が決まったのは全寮制の学校だった。寮は女子と男子で別れていたが、学び舎は共学だった。生徒たちは富豪や財閥や、どこかの王族や宗教者の子供ばかりだった。わたしのように過去を偽って入学する子も少なくなかった筈だ。
そうした秘密を守るためか、他人の過去を詮索しないという暗黙のルールがあった。だからわたしは、自分自身聞いたこともない新興の小国の、存在すらしない富豪の娘として一度も怪しまれずに過ごすことができた。世界中の上流階級の子息の集まりなんて、どんなに醜く恐ろしいやりとりが行われているのだろうと不安だったが、生徒たちはみな穏やかで、礼儀正しく優しかった。
わたしはそこで新しい言葉を覚え、仲間を作り、親友を作り、学校から寮の門までの道を、毎日一緒に歩くだけの恋をした。わたしと彼は互いに、それ以上の関係になってはならないと知っていた。
わたしが国に呼び戻されたのは十八の、留学先の国の季節では秋だった。そろそろ自分の将来について考えなければならない年齢だった。いっそ身分を捨て、この国の人間として生きてゆきたいと思っていたが、叶わぬ夢と分かっていた。
仲間との別れを惜しむ間もなく、わたしは飛行機に乗った。テロに遭うのではないかという、今まで思いつきもしなかった恐怖にふいに襲われたが、幸いそうしたことはなかった。
久しぶりに降り立った故郷は、昨日まで住んでいた国の言葉を借りれば夏真っ盛りだった。雲ひとつない青空に白い太陽が輝き、水を含んだ緑の葉が砂漠の風にそよいでいた。
そうしてわたしはこの建物に通された。いや、無理やり連れてゆかれた。
持ち物は取り上げられ、宮殿に最も古くから使える侍女による身体検査がなされた。父はわたしの妊娠を疑っていた。このときわたしは気が付いた。わたしは父の娘ではなく、世継ぎを産ませるための道具なのだ。
わたしは今、狭い中庭のついた離宮の一角にいる。母とも会わせてはもらえない。侍女たちが絶えず部屋を行き来してなにかと世話を焼いてくれるが、監視が目的だと分かっている。
窓辺に座り、持ち込むことの許された本を読むふりをしながら、彼のことを考えていた。
友人たちからふたごのようによく似ているとからかわれたが、ふたりとも砂漠の国から来たから、そのせいだろうと思っていた。わたしにも北国の子はみな似たような顔に見えていたから。
毎日の学校の帰り、けっして長くはない道のりの中で、わたしたちは互いの気持ちを、過去を、ほんとうの名前を少しずつ打ち明けあっていた。
砂漠と岩山に取り囲まれた彼の国には美しい湖があり、砂漠の瑠璃と呼ばれていた。その国の神は厳しい戒律を強い、名誉のための死を重んじた。よく似た神をあがめる隣国と長い戦争をしていた。
彼はもちろん平民ではなかった。富豪でもなかった。父も祖父も曾祖父も真っ青に塗られた宮殿に住み、人々を支配していた。彼は長男だった。
わたしは侍女の手から奪い返したペンダントに手をやった。彼が去年の冬至祭に贈ってくれたものだった。異教の祭りを祝うほど、わたしたちは異国の文化に染まっていた。
ペンダントは、たいした価値のない水色の石に雪の結晶を彫りつけたものだった。あの国では冬には必ず雪が降った。よく冷えた日の朝、わたしと彼は示し合わせて外に出て、ルーペを使って互いのコートの肩に散る雪の結晶を観察した。わたしたちの吐息がかかると、雪は見る間に融けて雫となった。
ペンダントの裏には、わたしたちがともに過ごした国の言葉でこんな言葉が彫りつけられていた。
『春は来る』
わたしたちふたりは、この地に春を呼び戻す役目を担っていた。
FIN
Kohana S Iwana
2023/11/15~2024/08/31