物語
ぼくは王になるのだな。最初に考えたのはそんなことだった。なぜかというと、川をゆらゆら流れる小さなゆりかごに乗せられていたからだ。
ぼくの知識によれば、優れた王は親に疎まれるか別の事情で、生まれてすぐゆりかごに入れられ、川に流されてしまうのだ。そしてその先で誰かに拾われ、自分が王子だなんて知らずに育てられるのだ。育ての親は子どものいない老夫婦だったり商人だったり、まだ夫もいない王女だったりする。愛されて育てられた王子は出自を知らぬまま力試しの旅に出て、辿り着いた祖国でやはり知らずに自分の親を殺してしまう。その後、彼は王となってふるさとの国を支配する。そんな伝説は世界のあちこちにある。
どうしたわけか、ぼくは生まれてすぐなのにそうしたことを知っていた。もしかしたら前世で得た知識なのかもしれないし、生まれる前の魂が暮らす天の国で、図書館に入り浸っていたのかもしれない。いや、生まれてすぐの赤ん坊は実は誰でも、大人から見れば思いがけないようなことを知っていて、成長するにつれて忘れてゆくのかもしれない。
ともかくぼくはそうしたことを知っていたので、安心してゆりかごの中でまどろんでいた。ゆりかごは籐で作られ、中には柔らかな毛布が敷かれていたからこの上ない寝心地だった。おまけに空は春の光に満ちているし、川はゆったりと流れてゆくし、どこからか鳥の囀りさえ聞こえていた。ぼくは安全な旅の末に自分が誰かに拾われることを疑わなかった。
もちろんそうなった。ぼくを見つけたのは水遊びをしていた小さな女の子だった。ゆりかごは不意に渦に巻かれたあと、彼女が柔らかい泥を踏んだり、川底のきらめく砂利を眺めたりしている浅瀬のほうへ押し出された。
突然眼の前に現れた奇妙な籠に、少女はびっくりして捕まえたばかりの蟹を落とした。それから細い腕でぼくの眠る籠を引き寄せ、中を覗き込んだ。
ぼくと彼女の眼が合った。その日の空のような水色の眼だった。夜の色の前髪を眉の上で切りそろえ、編んだ横髪の先に緑の飾りをつけていた。神に仕えるもののあかしだろうとぼくは思った。
彼女は大声で誰かを呼んだ。丈の高い草の間から、びっくりするほど背の高い影が現れた。影は槍を持っていた。腰からは大きな剣が下がっていて、むき出しの腕は豊かな筋肉に包まれていた。
男だ、とぼくは思った。この子を守る戦士だろう。しかし影は女だった。筋肉に負けないくらい大きな胸を、革の胸当てが押さえていた。
「みこさま」男のように低く太い、しかし、けっして男のものではない声が訊いた。「なにかございましたか」
「見て」
みこと呼ばれた少女は籠の中のぼくを示した。「この子、たった今流れてきたの」
「ふん」女は荒々しくぼくのゆりかごを引き上げた。そしてぼくの縫い目ひとつない産着を乱暴にめくり、すぐ元に戻した。身体に触れることは一切なかった。
「棄ておかれませ」それが女の返事だった。「この赤ん坊、男でございますよ」
「男って?」
「この世で最も野蛮で厄介な生き物でございます」
「でも」みこはぼくの頬を指先でそっとつまんだ。「こんなにかわいいのよ」
「今のうちだけでございます。育てばどうなることやら」
「どうした」また別の女戦士が草を分けてやってきた。「もうお帰り時間だぞ」
新しく現れた、最初の者よりはいくらかは女らしさを残す戦士は事情を聞くと舌打ちした。
「厄介なことになった」と首を振り、「ともかく宮へ連れてゆこう。下流には滝があるから、ここで川に戻せばこの子の命はない。知っていて川を死で汚すことはできない」
「しかし、男を宮に入れるのは‥‥」
「神官様が判断してくださるだろうよ」
こうしてぼくは奇妙な国の、奇妙な宮殿で育てられることになった。
その国には女しかいなかった。少なくともぼくは、今の今まで男というものを見たことがない。ならばどうやって子どもは生まれてくるのだろう。女たちはどうやって子どもを産むのだろう。その理由はやがて分かった。女たちは年に一度、川の向こうに出掛けて行って、そこで男たちと交わるのだ。そうして生まれた子どものうち、男の子は殺してしまう。この儀式は特別な祭壇で行われ、殺された赤ん坊は死ぬのではなく、よりよい来世を約束されて天に戻されるのだとされていた。
男にとっては恐ろしい国だ。
ぼくは小さな、長く使われてこなかった離宮で育てられた。
ひと通り教育も受けた。剣の扱いも習った。でも、自分がいつ殺されるのか、追放されるのかと気が気ではなかった。自分の行く末を考えるといつも眠れなくなった。
いけにえとして殺されるくらいなら、追放されるほうがずっといい。しかしこの宮殿から追い出されて、ひとりで生きてゆけるだろうか。籠に入れられて川に流された子は立派な王になるのだという考えは、すっかり忘れ去られていた。あのゆりかごの中にいた時ゆめみていた華々しい未来は、すべてどこかに消えてしまった。
ぼくはただの怯えた少年に過ぎなかった。先生は時折ぼくの頭のよさを褒めてくれたが、それを喜ぶ余裕もなかった。
みこの少女はぼくより五歳上だった。ぼくにとっては姉のような存在だ。成長し、祖母である女神官が老いるにつれて、彼女は自由に宮殿を歩き回るようになり、ぼくの暮らす離宮にも顔を見せるようになった。
ぼくたちは気が合った。庭園の隅に自分たちの手で花を植えたり、池に泳ぐ青と紫のまだらの魚に餌をやったりした。
「この国のしきたりを、私一人の力で変えることはできません」と彼女は言った。「でも、あなただけは絶対に誰にも傷つけさせないわ」
それでぼくの気持ちが楽になったわけではない。その後も夜中、毎日のように怪しい気配を感じては飛び起きた。ベッドに入る前は今夜こそ寝首をかかれるのだと思った。でも、今の僕は死ぬのが怖いのではなかった。どうせ死ぬなら彼女のために死にたいと考えるようになっていた。
宮殿があかがね色に燃えたのは、夏至の日の夜だった。女たちの半分が男と交わるために川を渡っていたから、いつもより警備が手薄になっていた。
あちこちで悲鳴が聞こえた。「わがきみを探せ」という言葉を一度だけ耳にした。
ぼくは、みこと一緒に自分の居室に隠れていた。男たちの怒号が迫った。悲鳴と、なにかが倒れる音、砕ける音、割られる音が近づいてきた。みこは震えながらぼくの手を握った。ぼくは安心させようと彼女の手を握り返した。
扉が勢いよく破られた。
「おまえたちが探しているのは私だろう」とぼくは叫び、川上の国の王家のしるしをかざした。
男たちはざわめき、ぼくの前にひれ伏した。
†††
そんなたわいない物語を、ぼくは机に向かって書いていた。
ぼくは拾われた赤ん坊だ。ぼくは拾われてまもなく去勢された。ぼくは幽閉されている。ぼくに会いに来る人はいない。毛布の下に隠された護符からぼくの出自を知った誰かが、殺さずここに閉じ込めたのだ。いつか取引に使えるとでも思ったのだろう。
読み書き程度の教育は受けたが、剣術など教えてもらえるはずがなかった。中庭に面したこの部屋はまあまあの居心地だが、会いに来る人はいない。状況が変われば明日にも処刑されるだろう。
食事や着替えを運ぶ侍女のものとは違う足音が近づいてきて、部屋の前で止まった。扉を開けたのはあの日、ぼくを見て棄てておけと言った女戦士だった。顔に皺は刻まれ、髪には白いものが混じっていたが、鍛え抜かれた逞しさは昔と少しも変わらない。
「ぼうや」すっかり成長しても、彼女にとってぼくははまだ坊やだった。「悪いね、お告げが下ったんだ」
ぼくはこうべを垂れてペンを置いた。
「追放ですか、処刑ですか」
「知らないほうがいい」
彼女は答え、ぼくの腕を掴んで立ち上がらせた。散歩程度の運動しか許されなかったぼくに、抗うほどの力はなかった。
みこと呼ばれていたあの少女はどうしただろう。美しく成長したに違いないが、一度もぼくに会い来てはくれなかった。
長いく暗い廊下の果てに、四角く切られた真っ白い光が見えた。
ぼくが王になることはない。伝説と現実は違うのだ。ぼくは権力争いで国を失い、たまたまアマゾネスに拾われた末の王子に過ぎなかった。
ぼくは足を速めた。こんな人生は少しでも早く終わらせてしまいたいと思った。
FIN
Kohana S Iwana
2023/11/16~2024/09/01