走馬灯

 列車の中でペンを落とした。

 長い旅の途中だった。戻るつもりのない旅だ。
 わたしは死ぬつもりだった。でも、いったいどこで、どう死ねばいいのかわからなかった。毒を手に入れるのは難しそうだったし、一般に知られている方法はどれも痛く苦しく、何よりあまりにむごかった。
 雪山で眠って死ぬのはたいへん気持ちがいいものだと、昔、本で読んだことがあった。眠るように死んだ身体は何年もの間、生前と全く変わらない状態で保存されるのだそうだ。
 この話を知った時、わたしは十歳だった。同年代の子よりもませていたわたしは、凍死というものに憧れた。もしも将来命を絶ちたくなる日が来たら、この方法にしようと心に決めた。
 それから義務教育を終え、進学し、子どもと呼ばれる歳ではなくなったころ、凍死というものはそうそう楽でも美しくもないのだと知った。雪山で、いや、しばしば夏の山でも、運悪く低体温症になった人は錯乱し、幻覚や幻聴に苛まれ、うわごとを口走りながら弱ってゆくものらしい。遺体だってきっと凍傷で真っ黒になってしまっているだろう。
 万が一の時は雪山で強い酒を飲んで寝るという長年温めてきた計画を、わたしはあっさり反古にした。当時のわたしは花の中を舞うように幸せではなかったが、地の底を這うような不幸を味わっていたわけでもなかったから、子どもじみた夢のひとつが消えたところで大して困ることもなかった。

 それから十年と少しの間に世界は変わった。目先のことにとらわれ忙しく生きてきたわたしには、どうして世の中がこれほど貧しく、人びとが厳しい言葉を投げあうようになったのか解らなかった。
 物価も税金も上がり、しかし給料は増えず、仕事があるだけありがたいという始末だった。雪山で氷の棺に眠る夢を見ていたころには、少なくとも表向きは穏やかだった北の国は、今や世界の半分から恐れられるようになっていた。残りの半分は逆にその国を褒めたたえて手を組んだ。世界中の国が怯えるように軍備増強に走っていた。
 夏の陽は人もアスファルトも焼き、夜には連日南国のスコールを思わせる雨が降った。冬至を挟んだ三ヶ月の間、地面は乾きひび割れた。今迄使ってきたエアコンで夏の暑さはどうにかなったが、刺すような冬の寒さはしのげなかった。
 不況の中で、昔ふうのストーブが飛ぶように売れた。わたしも小型のものを一台購入し、仕事から帰ると黒いストーブの傍で服を着替え、小窓の奥で揺れる炎を眺めながら食事を摂った。タイマーが鳴ると換気をし、再び冷えてしまった部屋の中でスキルを上げるための勉強をした。
 涙ぐましい努力のさなかに勤め先がついに潰れた。保障は覚悟していた以上に乏しく、人びとの眼は同情的ではあったがよそよそしかった。わたしは貯金を崩しながら職を転々とし、多くはない友人に愚痴をこぼし、自治体の相談員に泣きついた。わたしのような人間は珍しくない時代だった。

 最初の仕事場が潰れてから四つ目の職を失ったとき、心は決まった。
 わたしはアパートの大掃除をし、捨てられるものを極力捨てた。きれいなコートやスカートやワンピース、本や使っていない文房具など、寄付できるものは寄付をした。
 たったひとり連絡を取り続けていた友人に、親戚を頼って南のほうで仕事を見つけると嘘をつき、小型ストーブを引き取ってもらった。彼女は引っ越し祝いに扇子をくれた。開くと深紅の金魚が青い水の輪の中を泳ぐ、いかにも涼しげな扇子だった。金魚たちの周りには翡翠色や金や水色の灯が蛍のように舞っていた。
 寝巻と下着と丈夫な黒いサッシュと、数枚の服だけが残ったクローゼットから、モスグリーンのワンピースとクリーム色のボレロを選び、革のバッグに財布と手帖、昔父がプレゼントしてくれた万年筆と母の形見のハンカチ、それに友人のくれた扇子を詰めた。
 母はわたしが二十歳の時に、更に父は五年前に、それぞれ病気で他界していた。広すぎる実家は売りに出していた。わたしは一人っ子で親戚づきあいもなかった。結婚はしておらず、恋人もいなかった。一人のほうが気楽だったからだ。
 両親を失って以来、唯一の住まいとなっていたたアパートを出て、うす暗い路地を歩き、わたしは最寄りの駅へと向かった。
 北のほうへ、行ける処まで行くつもりだった。といっても、乗り換えなしで最も遠くまで行ける方向が北だったというだけで、凍死の件が頭にあったわけではない。
 それに今は夏の終わりだった。氷の棺を選ぶなら、夏でも雪に覆われている山に登るか、海を越えて北の国へと渡らなければならなかった。

     †††

 床に落としたペンは、声を上げる暇もなく視界から消え去った。
 眼をしばたたき、身体を屈め、まあたらしいローズ色のシートの下まで覗いたけれど見つからない。
 おかしい、とわたしは思った。十八歳の誕生日に父がプレゼントしてくれた万年筆は硝子製で、南の海に浸したような美しいコバルト色をしていた。そろそろ正午に近かったから、客車の中は明るかった。白木を模した素材を張った床の上で、きらめく青に緑の筋が渦を巻くペンはよく目立つはずだった。
 平日の昼間のせいか、車内に人はいなかった。諦めきれず立ち上がり、シートの縁に摑まりながら、老人のように腰を曲げて歩き回った。窓から差す陽がまばゆいひし形を通路に投げ、座席の落とす影もくっきりと黒かった。この影のどこかに紛れてしまったのだと思った。これから死のうとしているのに、あの世に持ってゆけもしない万年筆を探す自分が滑稽だった。
 結局ペンは見つからなかった。諦めて席に戻ると、向かいのシートに誰かが座っていた。まだ学校を終えていない年齢の女の子だった。
「ペン、落としませんでしたか」と彼女は言った。
 ワッフル地の白いパーカーに包まれた幼い手には、確かにペンが握られていた。でも、わたしが落としたものではない。どこかで見たような赤っぽい樹脂製の万年筆だった。
「落としたわ」彼女があまりにも自信たっぷりに手を差し出すので、わたしはついそう答え、それから慌てて付け加えた。「だけどそれじゃないの」
「いいえ、あなたのよ。ずっと見ていたんだから」
 きっぱり言って少女はペンを押し付けた。てのひらの熱が移ったのか、軸は妙に温かかった。仮にこれがわたしの落としたものだとして、この子が拾って渡すまでの短い時間にこれほど熱を帯びるものだろうか。
 多分まだ小学生だろう。細いおさげの先が、派手な色の花の描かれたシャツの胸に掛かっていた。
 不登校という言葉が頭に浮かんだ。昔の自分にもそのけはあったが、長く学校を休むことはなかった。中学の同じクラスではもっと大変な子がおり、保健室や相談室を行き来して、ほんの半時間教室に顔を出しては親が迎えに来て帰る、ということを繰り返していた。わたしたちは彼女をもてあまし、腫れ物のように扱い、そうすることで彼女を更に傷つけていたと思う。
 この子も学校へは行っていないのだろうか。家族はどうしているのだろう。旅行中だとしても、荷物らしきものは見当たらない。
 押し付けられるままペンを受け取り、手帖のホルダーに差した。少しの間使わせてもらおう。列車を降りたところで遺失物届を出して、その時に落とし物として届けよう。それからまた笑いたくなった。ペンが見つかった頃には自分はこの世にいないつもりなのに。
「ねえ」少女はまた話しかけてきた。「どこに行くの」
「北のほうよ」
「一人旅?」
「そんなところ」
「恋人はいないの?」
「いないわ、何人か付き合いかけた人はいたけど、友達止まりだったの」
「仕事は何をしているの?」
 正社員として働いていた時の仕事を告げると、彼女はそんな職業は訊いたとがないと笑い、細い脚をぶらぶらさせた。利発そうな大きな眼に危うい光が見え隠れした。揺れる白いスニーカーの、ラメをちりばめたロゴがきらめいた。
 自分も昔、こんな靴を履いていた時期があった。そうだ、紫のデイジーのシャツに大きな水玉を散らしたスカート、そんな子どもっぽい恰好をしているくせに、頭の中は生きる意味や、死や魂への拙い問いでいっぱいだった。そうした問いを聞くと大人たちはうろたえ、わたしを叱った。それでいつか、わたしはそうしたことについてあまり考えないようになったのだ。

 高くなり始めた青空の下を、ビルの散らばる古い街並みがごとごとと流れてゆく。絵も文字もすっかり剥げた看板が窓の傍をさっと走り抜けた。酒屋だろうか、レストランだろうか、雑貨屋だろうか。
 白い移動販売のワゴンが来て、わたしたちはサンドイッチとアイスクリームと珈琲を買った。少女はポケットから猫の柄の小さながま口を出して自分の分を支払った。
 販売員は二十歳そこそこの女性だった。額を出して髪を後ろで結っている。公共放送とかビルの受付とか旅客機で見かけるような、古風で平均的な顔をしていた。
 わたしはつい声をかけた。
「ペンを物を落としたんですけれど」
 彼女はピンクのシャツの胸ポケットからボールペンと用紙を取り出し、メモを取った。
「この万年筆、フランスのS社のものですね、私も大好きなんです」
 彼女があの万年筆について知っていたのが嬉しかった。向かいの少女と彼女が交わした目くばせは、きっとわたしの気のせいだろう。
 水色のストライプの紙箱に詰められたサンドイッチは、エビとアボカド、オニオンとトマト、チーズとハムの三種類だった。硬いアイスクリームにはバニラの粒が混ざっていた。
 わたしは珈琲をお代わりし、未だ名前も知らない少女は珈琲で口を温めながらアイスクリームを少しずつ口にしていた。死というものから自分がどんどん遠ざかってゆく気がした。
 途中、列車はいくつかの駅に停まったが、乗る人も降りる人もいなかった。峡谷の底を流れる川と、向こう岸に上半分だけ覗く観覧車の影と、丈高くけぶる秋の草と古い民家が窓の外を過ぎて行った。

 ふいにあたりが暗くなった。闇を飛ぶ橙色の明かりが、向かいの少女とわたしを交互に照らした。トンネルだ。
 いやに長いトンネルだった。二度と終わらないのではないかと思われたころ視界が開け、白い光が車輛を包んだ。わたしは思わず眼を細めた。

     †††

 わたしはごわごわしたもみの木色のシートに座っていた。向かいにいるのは痩せた女性だ。髪ははね、ボレロには斜めに皺がつき、ワンピースのくすんだ緑色のせいで肌は死人のように青ざめて見えた。頸についた赤い痣が痛々しかった。うす黒い隈に縁取られた眼がぎらぎらと輝いていた。

 わたしだ。

 眼を落すと水玉模様のスカートと、ラメの散った白いスニーカーが見えた。スニーカーの縁からペパーミント色の靴下の口が覗いている。踝にゴムが当たって痛かった。
「お代わりはいかがですか」販売員が眼の前の女性に訊ねた。
「ありがとう、もう大丈夫」
 それから二人は顔を寄せ、これ見よがしに囁きあった。
「終点まであと三駅ね」
「M峰に近いわね」
「たしか、あそこは一年中雪が残っているのよね」
 向かいの席の自分はそう言いながら、えんじ色の万年筆で手帖に何か書きつけた。
 思い出した。あれは小学校の卒業式の記念品だ。書きやすくて気に入っていたのに、中二の時に失くしてしまった。だから父はあの硝子の万年筆をプレゼントしてくれたのだ。
 ぼんやりとポケットを探った。はちきれんばかりに膨らんだがま口には、いっぱいの小銭と小さく折りたたまれたお札と、次の駅までの切符が入っていた。
 わたしは小銭を、三枚の古いお札を、オレンジの切符を順に眺めた。それから眼の前でまだ何か話をしている、ひとりはふっくらと美しく、ひとりは今にも息絶えんばかりに窶れてはいるけれど、年の離れた姉妹のようにそっくりなふたりを見た。
「あなたにはまだ死は早いのよ」あざけるように彼女は言い、手櫛で髪を整え、ボレロの胸の皺を延ばした。
 販売員の女性もう少し優しかった。「家に帰れば万年筆は戻ってきます」

     †††

 わたしは次の駅で降りた。旧式の券売機で、苦労して実家のある街の駅までの切符を買った。通りすがりの大人がじろじろこちらを見ているのが分かった。補導されなかったのはきっと、この地方の学校はまだ夏休みが明けていなかったからだろう。
 やがて帰りの列車が着た。なつかしい、赤とペールオレンジに塗り分けられた列車だ。 
 広い隙間を飛び越えて乗り、シートに座ると窓から青い山が見えた。てっぺん近くに雪とおぼしき白い筋がきらめいていた。
 次の駅で、どやどやと家族連れが乗り込んできた。巻き毛を垂らした小さな子が、いつか流行した小人のマスコットをピンクのリュックにつけていた。男性が突然携帯式のラジオを鳴らし、イヤホンが外れていたと気づくと周囲にぺこぺこ頭を下げた。
 わたしは眼を閉じた。今のラジオが正しければ、今日は二十年前の夏の終わりだった。
 わたしは十一歳だった。一年前、図書館の本で読んだ凍死についてのエピソードをまだはっきりと覚えていた。半年後にはあのえんじ色の、それから更に六年後には、青い硝子の万年筆を手に入れることになっていた。
 自分がこれからどう生きてゆくのかはまだわからなかった。でも、もう少し周りの人を思いやれるだろうと思った。あの、たまにしか教室に来られない女の子に挨拶くらいはできるだろう。もっと世の中の動きを見ながら生きてゆこう。真剣に恋愛というものをしてみよう。早々に諦めてしまった、本当にやりたかった仕事を目指してみよう。
 時間旅行はお腹が空くものらしい。車内販売のワゴンから、二十年後と同じアイスクリームと二十年後のものにハムが追加されているサンドイッチを買った。珈琲はサービスだった。
「お砂糖は?」ピンクのシャツが弾けそうに太った女性が勧めてくれたが、わたしは首を横に振った。珈琲は二十年後よりずっと深く、苦く、いい香りがした。
 頭の脇を金魚がすうっと泳いで消えた。たしかに死は自分にはまだ早かった。
 あのアパートはまだなかった。将来雪山に行くことも、あの部屋に住むことも選ばないと心に決めた。
 わたしがこれから帰るのは、両親のまだ生きている故郷の小さな家だった。

 
FIN
Kohana S Iwana
2024/09/13