午睡のあと

 彼は王子だ。王子は囚われの身だった。ある日魔女にさらわれ、森の奥のねじれた城の、墨色の塔に幽閉されたのだ。
 さらわれた原因はおそらく彼の美貌だった。王子は美しかった。百年、いや、千年に一度の奇跡の王子と呼ばれていた。彼をひと目見るために、海を、幾筋もの大河を、砂漠を、雪を頂く峰を超えて、肌の、髪の、言葉の、崇める神の違う人々が毎日のようにやってきた。
 王子は非の打ちどころのない微笑みを浮かべ、甘い声で礼を言い、五色の宝石をちりばめた剣や、糖の吹いた干し果物や、わざわざ世話をしながら鉢で運んだ異国の花や、ビーズで編んだ虹色のベルトを受け取った。
 ベルトは王子の腰に巻かれ、花は寝室の窓辺に飾られ、干し果実はデザートとなり、剣はベルトに下げられた。きらびやかなばかりで使い物にならない剣だったが、彼の国はもう三百年も平和が続いており、この先もしばらくは戦争など起きそうになかった。こうした彼の行動は、さらなる注目と賞賛の的となった。
 そんな彼がさらわれたのは、うららかな春の日の午後だった。彼は自室の前の中庭の、貝殻で飾られたあずまやで本を読んでいた。何十年後かは分からぬが、将来は王になる身であったから、そのための勉強には余念がなかった。
 しかし、真面目な王子もうっとりと頬を撫でる金の日差しにはかなわなかった。いつしか本は膝に落ち、彼はうつむいて舟を漕ぎ始めた。
 ことは一瞬だった。灰色のつむじ風が降りてきて、王子を本もろとも掬いあげ、そのまま彼方に運び去った。後に残ったのは飲みかけの茶と手つかずの菓子ばかりだった。

 目を覚ますと、見知らぬ部屋の中だった。自分の城の自室ほど広くも美しくもないが、掃除は行き届いていた。少なくとも埃は見当たらず、嫌な臭いもしなかった。空気は気持ちよく乾いていた。
 ここはどこだろう。王子はベッドから抜け出し、部屋にひとつしかない四角い窓に駆け寄った。そして驚きに声を上げた。自分の今いる部屋が、地面より空に近いところにあると分かったからである。窓の外には彼方まで黒い森が広がっていた。
 振り返り、反対側にある入り口へと向かった。一見なんの変哲もない木の扉には錠がしっかり下ろされていた。王子は外に出ようと悪戦苦闘したが、扉はむなしくガチャガチャと鳴るばかりだった。
 しばらくそうしていると突然扉が外側に開き、灰色のマントをまとった影が現れた。目深にかぶったフードの下から鷲鼻が覗いていた。鍵束を下げた指の爪は蔓のようにねじれていた。
「あなたはどなたですか」逃げ出すチャンスを逸してがっかりするのも束の間、いつもの癖で礼儀正しく王子は訊いた。「この城の方でしょうか。差し支えなければ城主さまにお取り次ぎをお願いできませんか」
 すると相手は怒ったように、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「取り次ぎだって? 失礼な王子さまだね。この私が城主だが」
「これは失礼をしました」さすがの王子も冷や汗をかいた。「しかし、ならば話は早い。どうかわたしをここから出して、城に帰していただけませんか」
「帰る? なぜ帰りたいのだね」
「両親や国民や、そのほかわたしを愛してくれる人たちが哀しんでいるでしょうし、帝王学の勉強や剣術の稽古もしなければなりませんから」ふと王子の頭に別のことが浮かんだが、彼はあえて触れずに置いた。
「へえ」城主は王子の顔を覗き込んだ。やにのついた真っ赤な眼に睨み据えられ、王子もさすがにぞっとした。
「誰かのため、誰かのため、何かのため、ずいぶんといい子の王子さんだね」
 城主は踵を返した。皺だらけの顔や手からは想像もつかないような、軽やかな身ごなしだった。
「いやだね、あんたはあたしのお人形なんだから。このままずっとこの塔で暮らすんだよ」
「それは困ります。何でもしますから、どうか」言いかけてしまったと思い、慌てて彼は付け加えた。「それに、そんなことをしたらわたしの父が黙ってはいませんよ。だって父はこの辺りで一番大きな国の王なんですから。あなたの城なんて、きっと攻め込まれてお終いですよ」
「いやいや、そうはならないだろうよ」城主は欠けた歯をむき出しにしてにやにや笑った。「だって、あたしはこの辺りどころか、この星一番の魔女なんだからね。なんでもするというのなら、あたしか、あたしの娘と結婚でもしてもらおうかね」
 そして王子が青ざめる間もなく、この城の主である魔女は出て行ってしまった。王子はいっしんに耳をそばだてたが、廊下を立ち去り、階段を下りてゆく足音は聞こえなかった。
 王子はそれから部屋の壁を叩いたり、押したり、継ぎ目を探しまわったりしたが、無駄だと気付くのに長い時間はかからなかった。やがて彼は疲れ果て、ベッドに倒れ込んで寝入ってしまった。目が覚めても相変わらず囚われの身のままだったが、部屋の中央に料理の乗ったテーブルが置かれていた。
「毒入りかもしれない」王子はつぶやいた。「毒でなくても惚れ薬くらいは入っているに違いない」
 しかし空腹には耐えられなかった。王子は剣もほかの武術もひと通り習っていたが、実際に誰かをのしたことも、厳しい戦場に身を置いたことも一度もなかった。もちろん腹かぐうぐうなるほどの空腹も、喉がひりつき舌が上顎に張り付くほどの渇きを覚えたこともなかった。だから、王子が料理に手を伸ばしたのは無理のないことだった。
「こうなったら、毒を食らわば皿までだ」言い訳がましく彼は言ったが、今の状況にこの言葉があっているか自信がなかった。「それに、腹が減っては戦はできぬというからな」
 料理は竈から出したてのパンと塩気の利いたチーズ、蒸した野菜とあぶった肉だった。菓子の代わりに甘いワインがついていた。城で出されていた食事に比べれば貧相なものだったが、この上なく美味に感じた。
 それから王子はまた眠った。次に起きた時には今までになく気分がさっぱりしていた。窓から見える空が淡い薔薇色に染まっていた。夜明けだった。今日にも父王が助けに来てくれるに違いなかった。

 しかし、王子の期待する助けは一向にやってこなかった。彼は食事をし、本を読み、魔女に頼んで新しい本を都合してもらい、更に紙とペンを取り寄せて自分の考えを書き付けた。元々勉強は好きな王子だったから、こうした生活に不自由はなかった。食べ物はうまく、三日に一度の入浴には薔薇の香りの湯が使われた。
 こんな暮らしを一年も続けると、当然の結果が彼の身体に現れた。
 太ったのだ。
 顔は丸くなり、お腹はたるんでぽちゃぽちゃしてきた。腕や足は今や捏ねたてのパン生地そっくりだ。
「こまったなあ」と王子はつぶやいたが、内心はそう困ってもいなかった。彼自身、実は自分の美貌に全く興味がなかったし、自分がこんなふうになれば、あの魔女やその娘が求婚することもなくなるのではないかと考えていた。
 しかし、魔女はたまにしか姿を現さなかったし、食事や風呂や着替えを用意し、部屋を整えてくれる見えない手に訊いても何も教えてはもらえなかった。
「まあ、なるようになるさ」と王子は考えた。

 更に一年が経った。あのさられた日を思わせる春の日の朝、王子は鳥の鳴き声で目を覚ました。暖かい日の朝に鳥が鳴くのはいつものことだが、それにしても今日はずいぶん近いな、と王子は思った。眼を開けて寝返りを打つと、開け放たれた窓の縁に真っ青な鳥が止まっていた。
「ああ」王子はのんびりと欠伸をした。太ってからすべての動作がのろくなったのは自分でもわかっていた。「おはよう。こんなところになにしにきたんだい」
 もちろん答えがくるとは思っていない。ただ、久しぶりの、魔女以外の生き物に嬉しくてついそう口にしたのだ。
 鳥は首を傾げ、数度いかにも鳥らしく囀ったあと、こう言った。
「王子さま、お探ししておりました」
王子はびっくりしてベッドから飛び降りた。「きみ、話せるのかい。いや、きっとこれはオウムの一種だろうな。人間が教えた言葉を繰り返しているだけだ」
「オウムじゃありません」鳥は長い尾羽根をゆすった。「わたしは人間よ。覚えていらっしゃらないの」
 次の瞬間、王子の前に青いワンピースに身を包んだおさげの娘が現れた。
「ああ、きみ、いつか田舎であった子だよね」
「ええ、そうよ。王子さまがまだ小さかった頃、田舎に預けられたとき一緒に遊んだイナンナよ」
「そうだ。イナンナだ」
 王子は懐かしい名を口にして微笑んだ。都に病がはやったときに、ひと冬過ごした田舎の屋敷の、すぐ近くに祖母と暮らしていた風変わりな少女だった。彼女は王子と同い歳の筈なのに、大人びていて、何でも知っているように見えた。小石をばらまいて占いをしたり、異国の文字で書かれた本を読んだり、束にした薬草で身体を撫でて頭痛を治してくれたりした。
「きみ、助けに来てくれたの」
「そんなものね」イナンナはドアのほうに向かい、まじないのしるしを空に描いて錠を外した。「さあ、ここから出ましょう。善は急げだわ」
 そこで王子は、実はあまり気が進まなかったのだが、イナンナと共に部屋を出た。
 自分が閉じ込められているのは、窓から見る景色から判断して高い塔の上のはずだったが、部屋から続くのは上り階段だった。階段は螺旋を描き、果てのないように思えた。王子はいくらもしないうちに息切れした。脚は傷み、胸が締め付けられて死ぬのではないかと思ったが、すぐ前を跳ねるように上ってゆくイナンナを見ると、弱音を吐くことはできなかった。
 気が遠くなりかけた頃、金色の光が視界を覆った。気が付くと、彼は春の陽の中にいた。

 見覚えのある場所だった。右手には白い崩れかけの柱があり、足元には割れた貝殻が転がっていた。けぶるようなさみどり色の草の中に、砂糖菓子の色の小さな花が揺れていた。
 王子は半ば察しがついた。
「何年くらいたったのだろう」
「二百年よ」
「じゃあ、もうぼくを知っている人はいないんだ」
「そうよ」
「ぼくの行動にいちいち騒ぎ立てる人も、いりもしない贈り物を送りつけてくる人も、立派な王になれという人もいないんだ」
「ええ」
「みんな死んだんだね」
「ええ、あなたが消えてすぐ、大きな戦争があったの」
「きっとこの国が滅ぶのは簡単だったろうな」彼は塔の部屋で読んだ本で、過去に滅ぼされた国々について学んでいた。
「そうね、幸せで美しいけれど、お人好しな国だったから」
「そうか」王子は大きく息をついた。「そうだろうって今はわかるよ」

 それからふたりはかつて広間だった部屋の、イナンナが掃き清めた床に座った。白い石の床は陽に温められていた。イナンナはポケットから占いの石を取り出し、床にまいた。
「あと五十年はこの国は大丈夫よ」
 そして彼女は王子の痛む足を薬草の束で撫で、王子が塔で呼んでいた本を取り出し、自分のものであるかのように読み始めた。
 王子はごろりと寝転がった。丸い腹が心地よかった。自分は本当は少しも真面目ではなく、民も国もどうでもよく、見た目などは一番どうでもいい人間だった。それでもイナンナのために、なにか仕事をしなければと思った。
 城で贅沢に育った彼は、世の中にどんな仕事があるのか見当もつかなかった。しかし、どんな辛い仕事であっても、あの王子としての日々と比べれば、はるかに自由で幸せなものに違いないと分かっていた。


FIN
Kohana S Iwana
2023/11/18~2024/09/18