系図 

 教会は、水のヴェールと真珠の泡粒に飾られていた。
 黄昏めいた、暗い海の底だった。海底に建つ教会に、人間が通うことはできなかった。
 沈む教会の近くには魚たちが暮らしていた。
 うす墨色や黒紫や、斑点を散らした土色の魚たちは眠たげに泳ぎ、鰭の動きと吐き出す泡で会話をした。彼らは何年も何十年も、ある者によれば何百年も生きているのだった。
 長く生きた魚の鱗は鎧のように硬くなり、かすんだ眼の上には角が、尻尾には鉤爪が生えた。太い棘が背骨に沿って一列、二列、三列に並んだ。
 ごつごつといかめしい身体は、老いのために記憶さえ失った魚たちの唯一の自慢だった。老魚は角を振り立て、鉤を見せびらかし、棘に飾られた背骨をねじり、水の底を這うように泳いだ。褐色の砂を巻き上げ、こげ茶の泥で腹を洗い、お気に入りのうす黒い穴ぐらによろよろと潜り込むのだった。
 彼らは海の深みに沈む奇妙なもののことは知っていたが、船の一種だろうと考えていた。
 魚たちは教会を知らなかった。もし知っていたとしても、とうの昔に忘れていた。

 彼らの仲間に子どもの生まれることはなかった。唯一の例外がボウとエアだった。
 二匹の親は旅の魚だった。旅人の細い背にはしなやかな鰭が生えていた。父の身体は赤紫で、母の身体は碧がかったコバルト色。うなじから尾まで金色の斑点が散り、脇には細い筆でひと刷きしたような美しい筋があった。長い旅をして来たのだと二匹は言った。
「どこからかね」老いた魚たちは旅の話を訊きたがったが、彼らは口ごもった。
「とても遠い処‥‥わたしたちのこの色の見える‥‥」
「まだ見えるのかね」
 長い髭が自慢の魚が横から太い首を伸ばした。「もう見えるというべきではないかな」
 しかし、どちらの老魚も、なぜまだなのか、なぜもうなのかまで説明することはできなかった。
「夜明けの時と夕暮れ時に‥‥」
「なぜそこを離れたのかね」
 二匹は瞼のない眼で目くばせを交わし、青いほうが答えた。
「あまりにも美しすぎて、罪深い身には耐えがたかったからです」
 それきりふたりはなにを訊かれても答えようとはしなかった。

 年寄りたちは二匹の魚を受け入れた。旅の夫婦は数日あたりを探索した後、もの寂しい岩場を自分たちの住処に決めた。伏せたコップの群れを思わせる岩場の傍には深みがあり、その闇の底に、あの教会が建っていた。
 水も空気も澄む明るい月夜には、教会の屋根に立つ銀の十字がきらめいた。老いた魚たちは不吉な光だと考えていたが、若い夫婦はこの十字架が好きだった。十字架の光る夜には住まいの入口に寄り添い、ふたりにしか分からない言葉で、ふたりにしか分からない昔話を語り合った。

 やがて卵が産まれた。薄紫と赤と青の入り混じった卵は全部で七つあった。二匹は深緑色の海藻に卵をあずけ、嬉しさにうたいながら泳ぎ回った。
 無事孵ったのは二匹だけだったが、夫婦はたいそう喜んだ。老魚たちは驚き、眠たげな眼をいつになくぎょろぎょろ動かし、尾びれの鉤で互いを叩き、これは奇跡だと泡を飛ばしあった。
 しかし、喜びは続かなかった。父と母になった魚が相次いで斃れたのだ。
「寿命だ」老魚たちは角の陰で涙を流した。「子を産んだ魚は力尽きて死に、命は次の世代に受け継がれる。我々が長く生きているのは、決して子を産むことがないからだ」
 彼らは赤ん坊の魚を自分たちの住処に連れ帰り、できうる限り大切に育てた。両親についても語って聞かせた。そうして老魚たちは改めてびっくりした。あの二匹のについて、彼らはほんとうに何も知らなかった。どこから来たのかも、ほかに仲間はいるのかも、罪とはいったい何なのかも。
 いつかあの旅の夫婦が歳を取り、鮮やかな体の色が薄れ、鰭の動きが鈍くなりだしたころ、思い出話にのんびり耳を傾ければいいと思っていた。あまりに長く生きすぎて、死というものの存在さえ、老魚たちは忘れてしまっていたのだった。

 ボウとエアとと名づけられた二匹の子どもは、涼しい泥に覆われた広場と、ひょうたん形の広場を取り巻くごつごつした岩の群れと、幾十もの穴の穿たれた岩の間を縫う砂っぽい道の間ですくすくと育った。魚の町を離れることは許されなかった。たった二匹の大切な子供なのだ。
 しかし、ボウとエアは隙あらばこの、泥と岩と砂の城を抜け出した。向かうのは決まって両親の暮らしていた岩場だった。空になった住まいの入口からは、巨大な深みがよく見えた。
 あの闇の奥には星が見えるのだと、ふたりはいつか、たしかに訊いたことがあった。まだ魚にも他の生き物にもなる前、柔らかく透明な卵の中でまどろんでいた時に、両親が語り聞かせてくれた言葉だった。銀の星が見えたらまっすぐに降りてゆきなさい、と思い出の中の言葉は語った。ふたりが親について覚えているのはそれだけだった。

 水も空気も凍る真冬の夜だった。人の消えた地球の大気は影ひとつなく澄みきっていた。
 満月だった。ボウとエアは与えられた穴をそわそわと出たり入ったりした。今日こそあの、両親の語ってくれた星を見ることができるような気がした。
 その日は宴会だった。なにを、誰を祝っての宴なのかを知る魚はいなかった。老魚たちはただ集まり、飲み食いし、騒ぐことが好きなのだ。だから、誰それの長寿を祝い、更に長い命を願い、この静かな海が今迄荒されずにいたことに感謝し、今後も永遠にこの静けさが続くよう祈っては宴会を開くのだった。
 言葉を持たない小さな魚や、海の底を舞う雪のような虫、噛み応えのある海藻に香り高い苔、それに、ごく稀に採れる海樹の実で腹を満たした老魚たちは、自分の穴に帰る事も忘れ、広場のあちこちでだらしなく眠りこけた。
 宴会場の隅で泡を投げて遊んでいたふたりは、今だとばかりに星が見える深みへと向かった。

 深みは真っ黒だったが、じっと眼を凝らして覗き込むと、墨色や紺色、深い緑が混ざっていた。なにか大きな石か岩がじっとうずくまっていた。
 ちがう、とボウは呟いた。横たわっているんだ。ちがうわ、とエアが泡を重ねた。そびえているのよ。
 その、深みからそそり立つ奇妙な山のてっぺんに、十字の星がきらめいていた。はるかに遠い水面を通して白い光が注いでいた。薄幕のような、精霊の衣の裳裾のような、そっと差し込まれた神の指のような光だった。
 二匹は頷きあい、深みに向かって身を躍らせた。流れはなかった。渦もなかった。ただひたひたとふたりを包む、冷たい水があるばかりだった。

 ボウとエアはまっすぐに十字架を目指した。
「あれは岩でも山でも船でもない」とボウが言った。
 エアが頷き、初めて口にする形の泡を作った。「教会だわ」
 ふたりは沈んだ教会の中に入っていった。朽ちかけた柱の列が、高い天井を支えていた。月の光を通したステンドグラスが、虹色の画を広い通路に投げていた。二人は画の上をゆっくりと泳ぎ、古い物語を読み解いていった。
 すべての物語を読み終えると、ボウとエアは奥の扉から外に出た。月は沈み、おりしも夜が明けようとしているところだった。水は温かった。あの通路を抜けるのに数か月の時を要したのかもしれなかった。
 ふたりは海の底の、長い長い坂を泳ぎのぼった。浅瀬を渡り、白い砂を踏んで歩いた。足の指の間に入る砂が心地よかった。
 うろこは脱ぎ捨てられていた。鰓もなかった。鰭から変わった五本の指に分かれた手を、互いにしっかり繋いでいた。
 振り返ると海が見えた。スマルト色の海の上に張られた空は、珊瑚の色に染まっていた。 
 年寄りたちが永遠の生を生きる水の果てから、まばゆい金の光が差した。
 世界のあちこちで新しい子供たちが海から上り、この星の上を掃いてゆく朝の光に、瞼のある眼を細めていた。


FIN
2024/09/23
Kohana S Iwana