かかし

 かかしが化粧をしていた。
 ふしぎだ、と子どもは思った。
 そのかかしの立つ畑の傍を、子どもは毎日歩いていた。朝には細いあぜ道を抜けて学校へ行き、石造りの校舎で午前中だけ授業を受けた。昼近くになると同じ道を辿って家に帰り、両親と一緒に乾いたパンと、たまにチーズのつく昼食を摂った。午後は陽の落ちるまで母親の手伝いをした。
 子どもはそれが嬉しかった。学校はあまり好きではなかったからだ。
 友達と騒ぐのは楽しかったし、先生はよくお話を聞かせてくれた。しかし、村に子どもは少なく、その中で学校に行く子は僅かだった。お話なら向かいのおじいさんの、気まぐれな妖精や醜い魔女や美しい王女の出てくる昔話のほうが、正しい人が報われて悪人が罰せられるばかりの先生の話より、ずっとずっと面白かった。
 両親も、ほんとうは子どもを学校になど行かせたくはなかったのだ。ただ、子どもが物心つく前に肺炎で死んだ、そのために顔も覚えていない祖母の遺言で、申し訳程度の登校をさせているのだった。

 字を覚えて、読んだり書いたりすることがなんの役に立つのか、子どもにはわからなかった。計算なんて、指を使って簡単な足し算と引き算ができればいいと思っていた。
 じっさい、子どもの母親は自分の名前しか書けなかった。それでも年に二度のお祭りの日にはおいしい菓子を焼くことができたし、端切れやあまり毛糸を使って虹色のクロスやひざ掛けをつくることもできた。重ねた布切れをくるりと巻いて薔薇の飾りをこしらえるのに、学校の勉強はいらなかった。
 父親も似たようなものだったが、広々とした立派な畑を持っていた。父の畑は毎年見事な金色に染まり、家畜もよく肥えていた。それなのになぜ自分たちのお腹にはほんの少ししか入らないのか不思議だったが、世の中とはそうしたものであるらしかった。
「今に感謝することだ」くず肉のシチューと硬いパンの食事の前の祈りの後に、父が必ず言う言葉だった。「そうすれば、お偉い方がみんなよくしてくださる。世の中にはもっと貧しい人が山ほどいるんだからな。下手な考えは持たないことだ」
 子どものたったひとりの兄は、役場の前の貼り紙はもちろん、本まで読める人だった。父親に怒られながら毎晩のようにランプをともし、テーブルに肘をついて眉間に皺を寄せていた。子どもが兄について覚えているのは、高い鼻が落とす影と、黒い眼に映るランプの明るいオレンジ色と、捲った袖から覗く腕のひっかき傷だけだった。
 兄はもうこの村にはいなかった。どこに行ったのか、どこに行けば会えるのか、両親も向かいのおじいさんも先生も、村の誰も教えてはくれなかった。
 兄のように、誰も知らないどこかに行ってしまいたくなかったから、子どもは読みかたも数えかたも知らぬままでいいと思っていた。

     †††

 子どもはかかしの傍で足を止めた。
 かかしは袋と棒きれでできていた。袋には乾いた草が詰めてあるはずだった。棒きれの身体には男物の、ぼろぼろの服が着せられていた。
 袋でできた頭には、炭で顔が描かれていた。鳥たちがびっくりするように、眼は大きく黒々と塗るのが常だった。鼻はあってもなくてもよかったが、口は耳まで長く引くのがふつうだった。
 ちょっと気のきいた人間、たとえば裏のお兄さんは、むき出しの口にぎざぎざの歯を添えることもあった。もっとすごいのは、花や実をすり潰した染料で口を赤く塗ることだった。赤い染料は女の人が唇や頬や爪に塗ったり、かまどや蒸し鍋に入れる前のお菓子に色を付けたりと使い道が多かったから、口の赤いかかしは珍しかった。
 子どもはかかしをみつめた。このかかしは唇が赤いだけではなかった。ひときわ大きく描かれた眼にはまつ毛が添えられ、更に青で縁取られていた。
 かかしは化粧をしていたのだ。お祭りの夜のお母さんや近所のお姉さんたちみたいに。
「かかし」と子どもは呼びかけた。「あんたにお化粧をしてやったのは、だれ」
 かかしは首を傾げた。斜めに突き出た腕が、村のはずれの森を差した。
 子どもは森へ行ってみることにした。言いつけられていた午後の手伝いのことも、お昼前でお腹が空いていることもすっかり忘れてしまっていた。

 青々とした畑に挟まれた道を抜けたところ、星の形の花がかくれ咲く野原の向こうに、うす暗い森が広がっていた。
 けっしてひとりで入ってはいけないと言われている森だった。年寄りたちは悪い精霊が棲んでいると言い、父親によれば悪党のすみかがあるという話だった。じっさい子どもはいつか、昼間に森の奥から細い煙が上がるのを見たことがあった。火事かと驚いて報せたけれど、大人たちは放っておけと言うばかりだった。
 学校の先生に森について訊くと静かに首を振り、中で迷うと大変なことになるから、小さな子はひとりで行かないほうがいいいと微笑んだ。
 しかし、そんな話さえ子どもはすっかり忘れていた。
 だってかかしの案内なのだ。かかしは悪いものを追い払い、畑を守ってくれるものだ。昔話の中では、ひょうきんものの若い男や、物知りの老人に姿を変えて旅の道連れになったり、迷った旅人に正しい道を教えてくれたりするものと決まっていた。
 子どもは昔話が好きだった。同い年の子たちよりも強く、妖精や魔法を信じていた。

 森の中は思いのほか明るかった。春のさかりのよく晴れた日だったから、注ぐ陽が樹々の根元に黄金のまだらを散らしていた。うす青い陰で白いつぼみが俯いていた。
 道はまっすぐ続いていから、迷うことはないはずだった。子どもは道をたどり続けた。
 それなのに、いったいどうしたことだろう。気がつくと、冬を越せずに枯れてしまった棘だらけのやぶの塊が、子どもの行く手をふさいでいた。
 振りむいても、つい先ほどまで歩いていた筈の道は消え、見分けのつかない樹々が立ち並ぶばかりだった。黒く朽ちた葉の間から、うす緑のきのこが覗いていた。
 子どもは泣きたくなったが、泣いてどうなるものではないと分かり始める歳だった。樹の上から村の方向を確かめようかと思ったが、登れそうな枝ぶりのものは見当たらなかった。大声で助けを呼んだが、真っ黒い鳥が一羽、梢の間からがさがさと飛び立っただけだった。
 子どもは考えた。かかしは間違っていたんだろうか。それとも自分を騙したんだろうか。
 騙して森で迷わせて、かかしは何をしたかったのだろう。お姫様のようなお化粧をしたあのかかしは。
 そういえば、かかしに髪はついていなかったが、耳のあたりにくるくるとした線が描かれていた。あれはおさげだったのだろうか。それどもカールだったのだろうか。
「ねえ、かかし」と子どもは叫んだ。「あんたがあたしを正しいところに連れて行ってくれるなら、すてきなおさげの編み方を教えてあげる」
 子どもは近所のお兄さんの恋人から、特別な髪の編み方を教えてもらっていた。その人は滅多に訊ねてこなかったから、覚えるのには時間がかかった。

「ほんとうに?」と声がした。振り向くと、黒く湿った樹の間、垂れ下がる葉の下に女の人が立っていた。
 麦わら色の太い、ふつうに編んだおさげが腰近くまで届いていた。顔は四角く、眼は氷の色をしていて、唇は薄く引き締まっていた。
 魔女だ、と思いつつ子どもは頷いた。同時にお腹がぎゅるぎゅると音を立てた。倒れそうなほどの空腹に、その時やっと気がついた。
 女の人は笑うと子どもを抱き上げた。腕は、かすかに覚えている兄と同じくらい逞しかった。そして下生えと藪と枝の間を風のようにひた走り、子どもをどこかに連れ去った。

 連れてゆかれたのは、森の中の野原に建つ屋敷だった。こうばしい木の匂いがした。つくりは簡素だが、子どもの眼にはたいそう大きく頑丈に見えた。先を尖らせた柵が、広々とした敷地をぐるりと囲んでいた。
 たくさんの人が忙しげに行き来していた。年寄りや子どもは見当たらなかった。男性は額に緑色の布を巻き、女性はおさげを垂らしたり、頭に巻いたり後ろで更に束ねたりしていた。
 女の人は、行きすぎる人に奇妙な言葉でなにか話し、子どもを階段の先の、西日の差す部屋に案内した。
 窓がひとつ切られた小さな部屋だ。ベッドとテーブルと、子どもには高すぎる椅子が置かれていた。壁には五色に塗り分けられた、旗らしき布が掛かっていた。
 よじ登るようにして椅子に座ると、女の人が湯気の立つ盆を運んできた。チーズを添えた大きなパンに鉢いっぱいの濃いミルク、ベーコンと一緒に炒めたたまご、それにきのこと川魚のシチューだった。村では滅多に食べられないごちそうだ。
「今日はここに泊まってゆきなさい」と彼女は言った。「明日の朝には家に帰してあげる」
 夢のような食事が終わると、女の人は昔話をしてくれた。特段変わった話ではなかった。昔々あるところに、きれいな娘がいて、継母にいじめられて、魔法使いのおばあさんに助けられて、魔法の力で王子さまと結婚する話だ。
 話しながら、女の人は泣いているように思えた。しかし、部屋の明かりは落とされていて、涙までは見えなかった。
 くしゃみを我慢しているだけかもしれない、と子どもは考えた。神話の戦いの女神のような女性には、助けられるばかりのお姫さまの話は似合わず、涙はもっとふさわしくなかった。
 その夜は満月だった。久しぶりにいっぱいになった腹を抱えてうとうととまどろみながら、子どもは人びとの騒ぐ声を聞いた。どこかで焚火がはぜている。誰かが太鼓を叩いている。あれは笛の音だ。それからなんだろう、竪琴だろうか、ギタアだろうか。音楽に乗せた、意味の分からない、けれどもいかにも勇ましげな歌が子どもの浅い眠りを満たした。
 子どもは眠った。いさましく斧をふるう男神にに交じって馬を駆る、女神たちの夢を見た。

 目が覚めると、子どもは森の入り口の、ひときわ大きな樹の幹に凭れていた。崩れた膝の脇に袋があった。開けてみると甘いパンと瓶入りの水が入っていた。
 子どもは立ち上がった。酒を飲まされたようにふらふらした。神々の夢をみた、と子どもは思った。剣を抜く勇士の中に兄の姿を見た気がした。それれから乾いた喉を鳴らしてつぶやいた。
「おさげ、おしえてあげなかった」
 子どもは根のこぶに座ってパンをたいらげ、水を飲み、袋と瓶を枝に下げた。細い荒れ野を越えた先に自分の村が見えた。あのかかしの横を通ったが、化粧はすっかり落とされていた。
 村は大騒ぎになっていた。両親は子どもを叱りつけ、抱きしめ、どこに行っていたのかとしつこく訊いた。子どもは自分でも理由のわからぬまま、覚えていないと言い張った。

 その夜、子どもはベッドの傍の窓から月を見た。昨夜より爪の先ほど削られた月だ。森の中の屋敷の小部屋で聞いた音楽や歌や笑い声が、この家にも届くような気がした。
 母親はぴしゃりと窓を閉めた。「こんな夜だったよ、あんたのにいさんが消えたのは」
 父は会合に出かけていた。あの、かかしの顔を描くのが上手なお兄さんがいなくなったのだと母が教えてくれた。「まったく、若い衆が消えるのはこれで何人目だろう」

     †††

 それからから数年後、この国で戦いが起こった。更に数年後には、この小さな村も戦いに巻き込まれた。
 子どもは大人になっていた。字は読めないままだったから、誰と誰が、何のために殺しあっているのもかわからなかった。学校が襲われ、畑は焼かれ、村は消え、両親を含め大勢の人が殺された。
 幸い彼女は生き延びた。村を出て隠れ住んだ見知らぬ街の穴ぐらの中で、不安げに泣く子どもたちに昔話を聞かせ、子守唄を歌ってやった。やけどを負った女の子の、わずかに残った亜麻色の髪を、あの特別なおさげに編んでやった。
 やがて戦いが終わった。いつか森の中で見た旗が雨上がりの空にはためいた。緑の戻りはじめた野の上を、あの夜聞いた歌が流れた。
 畑はふたたび黄金に染まるようになり、働けば働いただけ食べられるようになった。子どもたちは当たり前に本を読み、学校では来るべき素晴らしい未来が教えられた。若者は、世界や自分のあるべき姿をとうとうと語った。誰もが自由に仕事を選び、どこにでも、海の向こうにさえ行けるようになった。
 いい時代になった、と彼女は思った。難しいことはわからなかったが、少なくとも腹いっぱい食べられて、誰かが自分を殺しに来ないのはいいことだった。
 けれども満月の夜、孫のくれたラジオの傍で老いた彼女が思い出すのは、あの日、古いおとぎ話を語りながら泣いていた、おさげの女性の姿だった。
 国の方々の森に集った若者たちの間で、美しい理想のもと、どれほど怖ろしいことが行われていたのか、自分の兄や近所のお兄さんがどうなったのか、彼女も彼女が生きた時代の人びとも、まだ知らなかった。


FIN
Kohana S Iwana
2024/10/02