魔女の夢

 魔女の家は、けっして明けることのない国の、黒い森の奥にあった。
 黒く塗られた古い館で、どの部屋にも先祖の魔女の魂が暮らしていた。みなこの国のこの森の、この屋敷で生きて死んでいった者たちだった。魔女の魂は天に昇ることがなかったから、死後も屋敷に留まるしかないのである。
 風が吹くと木々が揺れ、窓がみしみし鳴り、その奥でぼんやりとした白い影が、呻いたり囁いたり古い歌をうたったりした。
 自分も死んだらそうなるのだと魔女は思った。もっとも、魔女の寿命は普通の人間よりずっと長かった。そのぶん老いた姿で過ごす時間も長くなるが、魔女の美しさの基準は人間とは違っていたから別に気にもならなかった。それどころか早く立派な魔女になって、高名な御先祖様のように書庫の本に書き込まれたい。それが魔女の望みだった。
 その本は魔女が死ぬたび新しいページが現れ、青い、流れるような字で文章が浮かび出る魔法の書物だった。
 大抵の魔女は『魔女暦何年何月何日生まれ、何年何月何日没 これこれの薬草から今までよりも高い効果の期待できる媚薬をつくりだした』などと書かれるくらいだったが、国をひとつ滅ぼすとか、人心を惑わして革命を起こさせるとか、その革命から美しい双子の王子と王女を救い出すとか、そうした仕事をするとたくさんのページを割いてもらえるのだ。 
 もっとも一番長く書かれているのは世界の最初の魔女についてで、彼女については最初の章がまるまるひとつ割かれていた。
 人生を終えた魔女には心地よい部屋が用意されていた。屋敷は魔法でつくられていたから、部屋は無限に現れることになっていた。例の本も、どれほどページが増えても、持てないほど厚くも重くもならなかった。

 その日、魔女は朝食のコーヒーと菓子パン(どちらも魔法で出したものだ)を食べながら、今日はなにをしようかしらと考えていた。悪くなった脚によく効く薬草の勉強を終えたばかりだったから、たまには何もせずぼんやり過ごすのもいいと思った。そこで、コーヒーとパンの残りを盆にのせて屋根に上ることにした。
 屋根の上は代々の魔女のお気に入りの場所だった。つやつやした瓦は月の光を受けると虹色に輝き、三角屋根をかぶせた箒置き場には、普段使いのものと、雨の日用のものと、集会用のものとがきちんと手入れされて立てかけられていた。
 昇ったばかりの満月を眺めながら(ここは夜の国なので、朝には満月が昇るのである)、魔女は使い魔の猫にミルクを与え、朝の風に吹かれながら菓子パンの残りを味わい、決して冷めることのない珈琲をゆっくり飲んだ。
 さて、そろそろ下に戻ろうというとき、恐ろしい音が森じゅうに響き渡った。魔女は仰天し、あやうく屋根から落ちそうになったが、頭に飛び乗った猫のおかげで我に返った。半人前であっても、この森の主は自分なのだ。魔女はさっそく普段用の箒にまたがり、しっぽに使い魔をぶら下げて飛び立った。
 音の出処を見つけるのにそう時間はかからなかった。
 真っ黒い杉の地面にすれすれのところに、見たことのない鮮やかな色のものが引っ掛かっていた。魔女は慎重に高度を下げ、謎の物体の正体を確かめようとした。しかし、木が邪魔して思うように近づけないこともあり、それがいったいなんなのかどうしてもわからなかった。
 しばらくぐるぐる周っていると、
「おーい」と声がした。
「だれ?」魔女は箒を空中に止め、たいそうな努力をしながら呼び返した。箒をただ浮いたままにしておくのは、思いのほか魔力を消費するものなのだ。
「こっちこっち」
 見ると、赤い残骸の傍に人間が立っていた。男だった。まだ少年といっていいような歳だ。ベルトやら紐やら切れた布やらを身体に絡みつけたまま、いっしんに手を振っている。魔女はともかく彼の傍に降りてみることにした。
「いやあ、助かったよ」魔女を見ても驚きもせずに人間は言った。「まさか夜の国に落ちるとは思わなかったし、夜の国がほんとうにあるとも思わなかった」

 彼は昼の国から来た王子だった。
 彼の国は豊かで、おいしいコーヒーも菓子パンもたくさんあった。機械という、人間の代わりに働いてくれるものが発達して、最近はそれを作る工場の出す煙が夕空を覆っていた。
 王子は七人兄弟の末っ子で、「そんなに王子はいらないから、お前は自分で食べてゆきなさい」と言われ、空飛ぶ機械で城から飛び立ったのだった。その機械はもともとは変わり者で知られる王子の大叔父さんが、南から来たものいう鳥と一緒に発明したものだった。
「でも、まだまだだなあ」王子は魔女の箒に乗せてもらい、屋敷で脚と腕にできた傷を手当てしてもらい、菓子パンと珈琲をごちそうになりながらため息をついた。「あんまり高いところを飛んじゃいけないんだな。風に巻かれると一発で壊れてしまうんだ」
 魔女は機械のことはさっぱりわからなかったが、王子が修理に必要だというものは魔法で出すことができた。王子の寝る場所や、食べるものも用意した。王子はそのたび慇懃に頭を下げたが、魔女は王子と話しているだけで楽しかったから、自分のほうが礼を言いたいくらいだった。
 やがてその、王子の機械の修理が終わった。鳥のようにも蛇のようにも、流れ星のようにも見える奇妙な形をしていたから、近くで見ても、けっきょく魔女にはなにがなんだかわからなかった。完全に直ったわけではないが、これで昼の国まで飛べるはずだと王子は言った。
 機械が完成した次の日、王子は機械を崖の上まで運ぶのを手伝ってほしいと魔女に頼んだ。それから赤くなってこう付け足した。
「よかったら、きみも一緒に来ない? きみみたいな女の子がこんな暗い場所に一人でいるなんて、絶対によくないよ」

 王子が寝てしまうと魔女は猫と一緒に屋根の上に座り、降るような星を眺めながら考えた。
 外の世界を見てみたいと思った。もちろん、もっと修業を積んで集会で認められ、一人前の魔女になれば、いくらでも外に行くことができる。火の玉や金貨やキャンディを降らせたり、生まれたばかりの赤ちゃんをさらって海の向こうの言葉も食べ物も違う国に置き去りにしたり、明日死ぬといわれている病人を一晩で元気にしたりもできるのだ。
「でも」と魔女はつぶやいた。「わたし今、彼と一緒にこの森を出てみたい」

 ふたりを乗せた空飛ぶ機械は、ガタガタとひどい音を立てながら崖の上からどうにか飛び立ち、青い空をぐるぐるまわり、幾度も墜落しかけながら、彼の国の城の裏の、丘の上に不時着した。
 城は大騒ぎになった。彼が魔女の森で過ごす間に七年の年月が経っており、その間に戦争が起き、兄たちのうち四人は戦死し、ひとりは行方知れずになり、最後のひとり、王子のすぐ上の兄は脚を悪くして寝たきりになっていた。
 そんなわけで王子は跡継ぎとして、未来の花嫁とともに城に戻ることになった。
 魔女は森を出るときには、自分は人間の何倍もの時間を生きるのだから、彼が老いて死んだら森に戻ればいいと考えていた。しかし、彼とともに空を飛び、まばゆい太陽の光を浴びた途端に、自分が魔女だったことを忘れてしまった。彼女は今、森の奥で老婆に育てられたみなしごの娘だった。

 娘は城の、以前であれば落ち着かなかったに違いない明るい部屋に住まい、気のいいきさきから刺繍を習ったり、王子の発明の手助けをしたり、脚の悪い兄の看病をしたりした。ただの娘になった彼女は曽祖母から怪我によく効く薬草について教わっていた(ということになっていた)。そのおかげか、王子の兄は杖を使って城の中を歩けるまでに回復した。
 やがて王と王妃が相次いで死に、王子が王に、娘が王妃になった。
 ふたりは珈琲と菓子パンが何より好きだったから、気が付くとほどよく太ってしまっていた。王の甥っ子が研究を引き継いだ、飛行機とかいう機械でならともかく、箒に乗って空を飛ぶことは重すぎてもうできなかった。そもそも彼女は自分がかつて箒ひとつで空を自由に飛べたことを忘れていた。

 夜の国の黒い森の館では、留守番を任された使い魔の猫がため息をついた。
「わかっていたわ」と猫は言った。「十人にひとりくらい、ああいう子が出るのよ」
 そして丹念に毛づくろいをし、鏡の前で、人間うけする首の傾げかたや鳴きかたや、かわいらしい喉の鳴らしかたを練習した。
 それからいらいらと長い尻尾を振りながら、森の外へ次の魔女を探しに行った。


FIN
Kohana S Iwana
2023/11/22~2024/10/18