繭
その時計は、物心ついた頃からわたしのベッドの枕元に置かれていた。子どもには大きすぎる祖母の形見のベッドの脇の、ものものしい彫刻を施した低い卓の上だった。
奇妙な人の姿をした、陶製のの目覚まし時計だった。先に銀の星のついた、紫のとんがり帽子をかぶっていた。まるまるとした身体をさらに大きく見せる服は赤と青のだんだら模様で、金色の靴の先はくるりと巻き、笑うというより無理に引き上げられた口は、紅で赤く縁取られていた。
突き出た腹には丸い文字盤がはめ込まれ、その針の、長い先には藍色の烏が、短い先にはオレンジの猫が留まっていた。烏と猫は始終追いかけっこをしていたが、いつも烏が優勢で、日に幾度も猫を追い越してはまた追いかけていた。どう見ても、古い家具には不釣り合いな時計だった。
文字盤を抱えた人物がピエロだと気がついたのは、週に一度入ることが許されている図書室で、今にも動き出しそうにいきいきとした画の添えられた、古い物語を読んだからだ。その本はこの屋敷ができるずっと前に刷られ、今では世界に一冊しか残っていない。
ピエロの時計も同じくらいに古いのだ。ピエロと呼ばれた男たちが生きていたのはきっともっと前だろう。母の護る灰色の屋敷の、書棚が回廊をつくる図書室の隅の薄暗がりでわたしはそう考えた。
「あの時計」ピエロという言葉を覚えた日の夜、母に訊いた。「ピエロだったのね。いつからあの部屋にあるの」
塔のように高く切られた窓の向こう、藍色の空を背に深緑の影を落とす梢越しに、満月が金の光を零していた。
わたしたちの夜は遅かった。わたしたちの屋敷では、昼よりも夜のほうが長かった。母は黙ってミルクを温め、月そっくりのビスケットを添えて言った。
「ピエロかなんてわからないわ。あの部屋にいつからあるのかもわからない」
「でも、おばあさまがわたしくらいの頃には、もうあったのでしょう」
母は頷き、自分のブランディ入りのミルクをひと口飲んだ。
わたしの部屋は、祖母が子ども時代を過ごし、わたしたちの時間でほんの少しの間屋敷を出たあと戻ってきて、それから死ぬまでを過ごした処だ。
わたしがおばあさまと呼んでいる、記憶の彼方に静かに座る儚げに痩せたその人は、ほんとうの祖母ではない。実の祖母の妹だ。実の祖母は母を産んでまもなくこの屋敷を飛び出し、それきり戻ってこなかった。
実の祖母についてはそれ以上の話を聞いたことがない。その人がなんという名か、どんな顔をしていたのか、わたしが祖母と呼ぶ人と少しは似ていたのか、全く似ていなかったのかも。
母は何も教えてくれない。母はほんとうになにもわからす、なにも覚えていないのかもしれなかった。
†††
彼女は普通の子どもだった。十歳になる女の子で、学校の成績は平均とトップのちょうど真ん中くらいだった。
普通の子よりも本が好きだったせいか、作文は得意だった。脚が遅く、ボールを蹴るのもラケットを振るのも、リズムに合わせて身体を動かすのも下手だったから、体育の授業では肩身の狭い思いをしていた。
変わり者の父親と見栄っ張りな母親と一緒に、この国のそこそこの規模の町なら大抵は見られる、庭付きの一戸建てに住んでいた。ありふれた家だったが、緑の屋根と白い壁と、リビングの張り出し窓を女の子はたいそう気に入っていた。庭には母親が季節ごとに植える花が咲き乱れ、裏には細い樹が植えられ、玄関ポーチは砂粒一つなく掃き清められていた。
この家に引っ越したのは、女の子が七つになった初夏だった。初めてもらった個室はベッドとタンスと机だけでいっぱいになってしまうほど小さかったけれど、ともかく自分の部屋だった。
まあたらしいベッドが部屋に入った日、女の子は枕元に時計を置いた。陶製のピエロの時計だ。大きなお腹の文字盤で、猫と烏が昼も夜も追いかけっこをしていた。
時計は女の子への引越し祝いだった。聞いたことのない国の、地図にも載らない小さな町の、蚤の市でおばさんがみつけたものだ。古い電池式の置き時計で、買ったときは液が漏れて中が緑色に染まっていたのを、おばさんがきれいに磨いてまた動くようにしたのだった。
大きな荷物を背負ったおばさんが久しぶりやってきたのは、引っ越しの支度の最中だった。
女の子が生まれたときから暮らしていたアパートは、中途半端に膨らんだ袋と口の開きかけた箱、しまいきれない本としまい忘れたコートやブーツ、なくしたと思っていたお皿やナイフであふれんばかりだった。女の子の母親はオルゴール付きの宝石箱を、父親は書類入れを、女の子は五歳の時から書きためていた絵日記を腕に抱えておろおろしていた。
どうにか使うことができたのは、狭いキッチンとリビングの窓側半分だけだった。乾物や油や調味料は荷造りの最初にしまい込んでしまっていたから、三人は惣菜屋で分厚いサンドイッチと菓子パンを買い、どうしても見つからないので仕方なく買い足したやかんでインスタントのコーヒーを淹れ、防虫剤の匂いのするコートにくるまってリビングの床で眠っていた。暖かい季節でよかったと女の子は思った。
玄関の戸が開くなり、おばさんは、ちょうどなんとかいう国から帰ってきたところなのよ、と早口で言った。いつもおばさんは早口だ。そのせいで国の名前は聞き取れなかった。
おばさんはひとめで事情を見て取ると、いつもデニムのポケットに差している空色のピンで豊かな巻き毛をさっとまとめ、ねずみ色の上着を脱ぎ、刺繍を施したブラウスの袖をくるくるまくった。
引っ越し荷物は瞬く間に開かれ、ほどかれ、詰め直され、ラベルやタグをつけられた。袋はパニエ入をつけたダンサーのようにずらりと並び、箱は都会のビルのようにそびえ、三人の大切なものはそれぞれ色違いの布袋に収められた。
片付けがすっかり済むと、おばさんは外国の缶詰や乾物の袋をキッチンに持ち込み、荷物から見つけ出した鍋とフライパンを使って料理を始めた。
その日の夕方、薔薇色の陽の差す半分だけのリビングで、四人は南の国の貴族のように輪になって座り、スープと平たいパンと、鳥か獣かもわからない肉にハーブをまぶして焼いたものをゆっくり食べた。甘いような辛いようなすっぱいような不思議な味で、いくらでもお腹に入りそうだった。
食事が終わるとおばさんは、女の子に青い包みを、母親に小箱を、弟である父親には四角い袋を渡すと、自分の荷物を手際よくひとまとめにした。
「あら、もう少しゆっくりしていらしたらいいのに」
女の子の母親が澄まして言うと、
「ありがとう、でも次の便に間に合わないの」とおばさんは答えた。
女の子の生まれるずっと前、女の子の両親が夫婦になり、変わり者の夫がたまに口にしていた、何倍も変わり者の義理の姉が現れてから、くり返し、儀式のように行われていたやりとりだった。
義姉さんは何を考えているのかしら。おばさんが帰るたび、きまって女の子の母親はそう言った。いつまでも独り身で、歳を取ったらどうするつもりなのかしらね。言いながら母親は、おばさんにもらった包みを開けて、お土産のお茶を飲んだり、闇色の中に虹の散るペンダントをうっとりと眺めたり、貝細工のボタンをお気に入りのブラウスに縫い付けたりした。おばさんのくれるものが偽物であることは決してなかった。
女の子の父親は、おばさんの血のつながった弟のはずなのに、あまり似ていなかった。
仕事以外では滅多に出掛けず、本でいっぱいの部屋にいつも閉じこもっていた。引っ越しが決まったのも、父親の蔵書がアパートに収まりきらなくなったからだ。
ふだんはお客が来ても顔を出さず、あらかじめ来客の日を知らされようものなら町の図書館に逃げ込んでしまう。今日の天気はとか、どこぞの俳優が三度目の離婚をして八度目の結婚をしたとか、はす向かいの息子さんがやくざものと付き合っているとか、そうした話を耳にするのが居ても立ってもいられないほど苦痛なのだ。
そんな父親も、山に住む人々のようによく通る挨拶が聞こえると、おずおずと部屋から出てきてリビングに座り、旅の話に頷いてはノートをになにか書き込んだ。引っ越しのときは女の子に借りたペンで、サンドイッチの包み紙に細かい字でメモ取った。そして、別れ際には決まってこう言うのだった。
「それで、ねえさん、次はどこに行くんですか。そろそろまたむこうですか。いつこっちに戻るんですか」
女の子はおばさんが好きだった。時計もひと目で気に入った。あちこちいじり回すうちに、目覚まし時計なのだとわかった。セットした時刻に針が合うと、奇妙なメロディが流れるのだ。
哀愁を帯びた曲は、爽やかなめざめには不釣り合いに思えた。母親は気持ちの悪い曲ねと鼻を鳴らしたが、父親は満足そうに頷いた。
「いかにもピエロらしい曲だ」
それから女の子の父親は、かつて王さまに仕えていた道化と呼ばれる人や、どの国にも属さずに芸をしながらさまよい暮らした人々や、サーカスのピエロを扱った物語について話してくれた。ピエロの話はどれもあやしく哀しかったが、女の子の気に入った。女の子は毎朝、どちらかといえば宵に合いそうなメロディで目覚め、母親が完璧に仕上げた朝食を食べ、しみひとつない制服を着て学校へ行き、寝る前は明日の支度をしながらその日あったことピエロに話し、枕に頭をつけるなり、蝶の羽をもつ小さな人や、千年に一度だけふたつの大陸にかかる虹や、何億年も前から海の底で眠り続ける巨大な貝の夢を見た。
女の子のがピエロにする話はどれも、たわいのないものだった。難しい単元に入ったとか、友達の誕生祝いを何にしようかとか、今日は朝から先生の機嫌が悪くて大変だったとか。
ピエロはどんな話を聞いてもつやのある唇でにっこりと笑い、お腹の中で猫と烏を走らせていた。
新しい家にも学校にもすっかり慣れ、図書室で一緒に勉強をする仲間の中に気になる男の子ができた頃、女の子はおかしなことに気がついた。
ピエロの電池が切れないのだ。
おばさんからこの時計をもらってもう三年になる。目覚まし時計の電池って、どれくらいもつのだろう。時計によっても電池によっても違うのだろうが、三年はさすがに長すぎる気がした。
「そう思わない?」と時計に訊いたが、ピエロは星屑をちりばめた眼を細めているだけだ。
女の子は学校の課題を前に首をぐるぐる回し、好物だった夕食にも手がつかず、ベッドの中で幾度も寝返りを打った。
時計の針の動く音だけがカチカチと響いていた。音は次第に大きくなり、まどろみかけた女の子の夢の中にも入りこんだ。
もう限界だわ。女の子は跳ね起きてベッドから飛び出すと、明かりをつけて時計を掴み、裏のカバーに爪を掛けた。
幾度か引っ搔くと、かちりという音とともにカバーが外れた。中から飛び出したのは電池ではなく、エメラルド色の蛇だった。
女の子はびっくりして時計を落とした。文字盤の硝子が割れ、猫が烏を捕まえた。蛇は女の子の部屋の隅の影の中にするりと消えた。
翌朝、新しい電池を入れても時計の針は動かなかった。最初から電池なんて入っていなかったのだから、当然のことだ。蛇のほうはどんなに探しても見つからなかった。
女の子は硝子が割れたままの時計を本棚の隅に飾った。動かなくなったからといって、捨てる気にはなれなかった。代わりに買ったのはうす緑色の、頭のベルを金属の槌が叩く、ありふれた目覚まし時計だった。
メロディではなくベルの音で目覚めるようになって一年後、女の子は気になる男子と初めてふたりで学校のランチを食べた。図書室は本を借りるより勉強をする場所になった。魔法や妖精やピエロの物語は読まなくなった。おばさんが来る日も留守にしていることが多くなった。
やがておばさんは仕事のために遠い国へ行ったきりになり、幾度か引っ越すうちにピエロの時計もなくしてしまった。
†††
「外に持ち出しても、けっきょくはそうなるんですよ」
母が誰かと話をしている。
お客さまだわ。うとうとしながらわたしは思う。いったい何の話だろう。
「だから、ああしたものは本と一緒にここに置いて、うちの子がおもちゃにするくらいがいいんです」
「あの子ならわかると思ったんだけど」と、母でない方の声が言った。「だって、一応母さんの血を引いているのよ」よく通る、少し早口の声だった。おかあさんの知り合いかしら。
「女の子なんてわかりませんよ」
「そう言うなら‥‥(わたしの名だ)だって女の子じゃないの」
「あの子はここで、私がちゃんと躾けていますからね」
声が笑った。それからふたりはまたなにか話しはじめたが、内容までは聞き取れなかった。
わたしはベッドから出て窓辺に立った。満月だった。白い月明かりに満たされた寝室は、明かりなどなくとも充分に明るかった。
よく手入れされた庭の向こうに、さいはての崖が覗いていた。崖の底、時の内側に住む人たちのともす光が蜘蛛の巣状に連なっていた。
わたしは時計に手を掛けた。少し迷い、それからため息をついて元の場所に戻した。
中を見るのは今でなくとも良かった。わざわざ時計を壊さなくても、いつか猫が烏に追いつく日が来ると知っていた。待てば待つほど蛇が美しく育つくこともわかっていた。羽化した蛇は、それまでに蓄えた夢を吐きながら空を飛ぶのだ。夢の主であるわたしを乗せて。
それまで待っていいと思った。崖の上に住むわたしたちには永遠の時間があった。
FIN
Kohana S Iwana
2024/10/29