眠れる森の

  子どものころから時折同じ夢を見ていた。
 それほど頻繁ではなかった。せいぜい週に一度くらいだ。もっと間が空いて、月に一度のこともある。いや、これは普通の人にとってはかなり頻繁なのかもしれない。でも、自分は夢をほぼ毎晩見るので、これでも時折という気がしていた。

 最初にその夢を見たのは五歳くらいの時だった。小学校に上がる前だ。
 わたしは夢の中で、黒い森の前にいた。森はいばらでできていた。いばらは煤を浴びたように黒ずんでいた。わたしは腰から剣を抜き、いさましく藪を払った。森の向こうには、やはりいばらに覆われた城の尖塔が覗いていた。月の光を受けて、塔の先はオパールのようにゆらゆらと輝いていた。
 あまりにも生々しく、小さな女の子が見るには不自然なほど禍々しく、しかし美しい夢だった。だからわたしは、母が焼いてくれた厚いトーストの角を指先でつまみながらその夢の話をした。けれどもわたしの言葉が拙かったせいか、大人にとってはいかにも童話めいたものとしか思えなかったのか、キッチンで忙しく父と自分の珈琲と、わたしのホットミルクを用意している母は、こう答えただけだった。
「あら、この前連れて行った、いばらひめのお芝居のせいかしらね」
 両親は教育熱心で、子どもに対するお金の使い方がいっぷう変わっていた。特に父は、流行のおもちゃやかわいらしいキャラクターのついた服を与えるよりも、豪華な児童書をプレゼントしたり、子供向けのお芝居やクラシックコンサートにわたしを連れてゆくことを好んだ。だから父は得意げに新聞をめくった。
「おまえは感性が豊かだからな、将来は詩人か作家になるかもしれないぞ」
 二人の態度にわたしは軽い不満を覚えたが、黙っていた。その日は幼稚園で山歩きをすることになっていたので、母はいつもより大きなパンとチョコレートと、パック入りのオレンジジュースを持たせてくれた。
 両親と一緒に車に乗る頃には、わたしは夢を忘れていた。

 夢の中で、わたしは少しずつ森にの中に分け入った。いばらは容赦なくわたしに棘を向けた。時折群れを成して咲いている、黒い、薔薇に似た花は、不快なにおいを放ってわたしに吐き気と眩暈を起こさせた。ときには切り裂いた大きな株の向こうから、猫とも狼とも鷲ともつかない獣が現れ、わたしの胸元を爪か牙か嘴でえぐった。
 そんな恐ろしい夢のあとには、どうしたわけか身体にも異変が起きていた。夢で受けたひっかき傷は赤く小さな治りかけの跡となり、夢の中で倒れれば微熱を出し、獣との戦いで怪我をすれば激しい腹痛を起こした。この時はさすがに両親も慌ててわたしをクリニックに連れて行った。
「お腹にガスが溜まっていますね」エコーの画像を見ながらかかりつけの先生は言った。「なにか消化の悪いものを食べたか、それともお腹を冷やしたかな」
 前日、フルーツを乗せた大きなフラッペを食べていたから、心当たりは大いにあった。けっきょくその腹痛は先生の指示に従い、腹巻をして安静にしていると大量のガスが抜けて回復した。
 そのとき、うとうととまどろみながら見た夢の中で、わたしは森の中の泉の傍で休んでいた。透明な泉は、森の中で数少ない祝福された場所だった。水を飲み、濡らしたハンカチで傷をぬぐうと身体はたちどころに回復した。静まった水面を覗き、わたしは自分が誰なのかを知った。
 わたしは若く美しい王子だった。そして、あの城には王女が閉じ込められ、千年の眠りについていた。

 夢の旅は長く続いた。わたしは現実では大学へと進学し、ジャーナリズムを専攻した。
 卒業の時はちょうど酷い就職難だった。仕事はなかなか見つからなかった。友人のほどんどがそうだった。皆、集まるたびに、子どもじみた論立てで政治や時代を非難したが、それも無理のないことだった。中にはおかしな宗教にはまり、この現実は自分のほんとうの現実ではないなどと言い出す者もいた。
 その話を聞いて、わたしはどきりとした。しかし、夢の中の、王子の自分こそ真実の自分で、この辛い、というよりつまらない現実は幻にすぎないのだと思い込むことはできなかった。わたしはおとぎ話の本を、とっくに自分の棚から取り去っていた。
 やがてある出版社に拾ってもらい、それからそこが早々に潰れたり、べつの出版社に自分の書いた記事を売り込んだり、それが認められてちょっとした賞を取ったり、その、当時のわたしには夢のような額の賞金で、海外を旅してノンフィクションを書いたりした。
 かつてのつてで出してもらったその本は、わたしが以前から興味を持っていた小国の、市井の人々の暮らしを扱ったものだった。
 彼らの現実は過酷だった。美しい森と史跡と、勇ましい戦士を先祖に持ち、独自の言葉を話していた人たちは、今は疲れ切り、気力もプライドも失っていた。戦争が国も歴史も人の心も破壊したのだ。
 わたしはそこである老婆と、彼女の孫である男性と知り合った。老婆は歴史と伝承の素晴らしい語り手で、男性は頬に戦争で受けた大きな傷があり、しかしそれを隠しも見せびらかしもせずに日々働き、祖母に献身的に仕えていた。彼の両親は戦争と、さらにその後の混乱で帰らぬ人となっていた。
 わたしは母国で仕事をし、金がたまると彼らの国へ通うようになった。そして、出版から数年遅れて本が広く読まれるようになり、ひょんなことからそこそこ大きな情報番組のコーナーを任せられるようになった。
 そんな、他人から見れば充分ドラマティックな現実に忙殺されながらも、わたしはあの夢を見続けていた。

 わたしはついに森を抜け、城に入り、薄暗い厨房や天井の高い聖堂や、広大な広間を探索した。
 子どものころに見たお芝居のように、燃えさかる火を縫い留めたままの竈も、祈りの途中で凍り付いている坊さまも、眠りこけている召使も見当たらなかった。がらんとした城をわたしはさまよい、やがて細い螺旋階段を見つけると、ゆっくりとした足取りで昇って行った。

 現実で、わたしはあの青年と結婚した。彼の国はまだ貧しかったが、少しずつ立ち直り始めていた。第二の故郷と自分自身の母国、そして夢の中を行き来する、更に忙しく、そして充実した日々が始まった。
 そんな暮らしが五年ほど続いたとき、わたしは突然病に倒れた。彼の祖母はとうに他界していたから、わたしたちはふたりでわたしの国で暮らそうと決めた。

 そして今、わたしは病室に横たわっていた。
 わたしたちはけっきょく子どもを作らなかった。このまま死ねば夫をひとりにしてしまう。ならば無理をしても子供を産んでおくべきだったと思った。
 仕事にも恋愛にも後悔はなかったが、両親のように、忙しくとも子どもを育てられるくらいに落ち着いた家庭を持たなかったのは心残りだった。
 わたしはうとうととまどろんでいた。自分がたくさんの機械に繋がれ、半ば無理やり生かされていると分かった。細い管がわたしを取り巻き、縛り付け、この世に引き留めていた。
 苦しくはなかったが、なんとうっとうしいのだろうと思った。いっそこれを全部外してほしいと頼みたかったが、自分の手を握る彼の眼や、彼の肩に手を置き励ます両親を見るとそれもできなかった。

 夢の中で、わたしは最後の扉を開けた。
 小さな部屋の奥の宝石をちりばめた寝台に、茨に囲まれ、細い蔓に縛られるようにして美しい王女が眠っていた。わたしは注意深く剣をつかい、彼女を戒めから解放した。
 最後に残った、もはや枯れかけた蔓を指で取り外すと、王女の長いまつげが震え、ゆっくりと瞼が開いた。北の海のように青い、大きな眼だった。
「王子よ」と彼女は囁いた。「わたくしを救いだしてくださったことに感謝します」

 現実のわたしの傍らで、夫が、両親が泣き崩れた。
 わたしは機械につながれた時から見始めた、思い出と空想の入り混じった長い夢を今終えた。夢の城は、夫の国のもっとも古く、もっとも有名な史跡にそっくりだった。

 わたしの死に顔は、やすらぎと微笑みに満ちていたに違いないと思っている。


FIN
Kohana S Iwana
2023/11/24~2024/10/31