魔女たち
女の子はひとり、通りを歩いていた。お供は人形ひとつだけだ。
女の子は家を飛び出したところだった。お母さんはいなかった。お母さんは、女の子が五つの時に病気で死んでしまった。だから女の子が覚えているのは、白くて細い、骨の浮いた手だけだった。
女の子の思い出の中のお母さんの手は、普通に言われているお母さんの手とずいぶん違っていた。触るとガサガサしていたし、パンの匂いも香水の香りもしなかった。お菓子をくれたり、いいことをすると撫でてくれたり、悪いことをしたからと言ってぴしゃりとぶつこともなかった。大抵は、身体の形に膨らんだ布団の脇に置かれていた。たまに胸の上で組まれると、女の子はお母さんが死んでしまう気がして怖くなった。
女の子が恐れていた通り、お母さんは死んでしまった。手をどこに置こうといずれは死んでしまう運命だったのだ。お母さんはそれほど重い、治る見込みのない病気だった。治療も命を延ばすというより、苦しみを和らげるためのものだった。
お母さんの葬儀にはたくさんの人が集まった。女の子は黒い服を着て、泣きもせずに椅子に座っていた。その様子が人々の涙を誘った。中には感極まった様子で抱きしめる人もいた。その人はお母さんの親友だと名乗った。そして二年後、お母さんの一番の友人だというその人は、女の子の新しいお母さんになった。
新しいお母さんは、女の子の眼にも美しい人だった。もっとも、ほんとうのお母さんとどちらが美しいのかは、女の子にはわからなかった。女の子のほんとうのお母さんはずっと病気だったからだ。
女の子の思い出せる限りの最初の記憶は、お母さんが病院のベッドに横たわり、お父さんに何かを打ち明けているというものだった。お母さんが泣き出すと、お父さんは慌てて女の子を病室の外に出した。
女の子は白い壁に囲まれた、蛍光灯が点々と並ぶ廊下でじっと待った。ドアの向こうからはぼそぼそという声が聞こえたが、内容までは聞き取れなかった。聞き取れたとしても難しい話だから、物心ついたばかりの女の子には理解できなかったに違いなかった。
その日、お父さんはキッチンのテーブルに大きな菓子パンとパックのミルクを置き、これを食べなさいと言い残して寝室にこもってしまった。女の子は椅子によじ登り、ミルクを少しずつ飲みながらパンを食べた。ミルクは甘く、パンはもっと甘かった。女の子が大好きで、でも身体に悪いというので滅多に買ってもらえなかった、砂糖ごろものかかったデニッシュだった。中には甘く煮た林檎が巻いてあった。女の子の頬も指もべたべたになったが、拭いてくれる人はいなかった。最初からいなかったのかもしれなかったが、女の子にはわからなかった。
ほんとうのお母さんならきっと頬を拭いてくれたし、おいしい料理をたくさん作ってくれたはずだ。たわいのないホームドラマを見ながら女の子は思った。もう少し大きくなれば、スーパーで買った生地と手作りのジャムをで一緒にデニッシュを作ったはずだ。自分が学校に上がれば門まで送ってくれたはずだ。
新しいお母さんは、そうしたことは一切してくれなかった。女の子が手か顔を汚すと、太腿を木のへらで真っ赤になるまでぶち、自分で汚したのだから自分できれいにしなさいと怒鳴った。キッチンはコーヒーを淹れるか、買ってきたものをお皿に並べるか、お酒を瓶に注ぐためのだけの場所だった。お父さんは新しいお母さんと一緒に、毎晩夕食を食べに出かけた。女の子にはかさかさの安売りの、何も巻いていないパンが投げ与えられるだけだった。
もっと食べたいとか、別のものを食べたいとか言えば、木のへらのお仕置きが待っていた。だから女の子は我慢して、毎日同じ、乾き具合や硬さだけが少しずつが違うパンを食べるしかなかった。喉が渇くと洗面台の水を飲んだ。キッチンの蛇口は高くて女の子には届かなかったからだ。
女の子はやがて、学校に上がる歳になった。さすがにお父さんも新しいお母さんに言った。
「なあ、あいつもこの秋から学校だ。どうにかしないとまずいぞ」
「通わせなければいいのよ」それが新しいお母さんの返事だった。
「しかし、通わせないとば俺たちが何か言われるだろう。最近の学校はうるさいらしいからな」
「そりゃあやばいね」新しいお母さんはいつも、下町に住むいやしい女のような口をきいた。「なら、やっちゃう? いっそ。なに、ばれやしないわよ」
女の子はトイレに起きて、たまたまこの話を聞いてしまったのだった。寝床に潜ったあとも眠れなかった。今にも新しいお母さんに「やられてしまう」気がした。そうなる前にここから逃げ出さなくてはならないと思った。
そこで女の子は、夜明け前にベッドから忍び出て、なるべく音を立てないように服を着替え、お腹が空いたときのためにとぶたれるのを覚悟でくすねておいたビスケットと、先週、お仕置きで閉じ込められた屋根裏で見つけた紙袋を持って家を出た。紙袋の中身はわからなかったが、上のほうに留められたカードには『愛する娘へ』とあった。女の子は学校に上がる前から字が読めた。だから、ほんとうのお母さんが自分に残してくれたものだとわかった。
少しでも早く家から遠ざからなくてはならなかった。だから女の子は、行き先を決めるより先に速足で歩いた。夏至が近かったから、太陽こそまだ出ていなかったものの、空は明るく輝いていた。風は柔らかく、空気も温かかった。
「ちょっと、あんまり揺らさないで」公園の近くに来た時、紙袋の中から声がした。女の子がびっくりして紙袋を開けると、中には布人形が入っていた。袋は古く、しみだらけで埃をかぶっていたけれど、人形は買いたてか、作りたてみたいにきれいだった。ボタンの眼は黒々と光り、黄色い毛糸の髪はほつれひとつなく編み下げられ、にっこり笑った形に描かれた唇は、あざやかなさくらんぼ色をしていた。
「ああ、びっくりした」
女の子と人形は同時に声を上げた。それからまた同時に言った。
「あなただれ」
少しの沈黙の後、女の子が先に答えた。「わたしはあなたの持ち主よ。たぶんだけど」
「たぶんってどういうこと」
「あなたの入っていた袋のカードに、『愛する娘へ』ってあったの。わたしがその娘だと思うのよ。だって家には女の子は一人しかいないもの」
「ふんふん、なるほどなるほど」と人形は言った。「つまり、あなたがあの人の娘ってことね」
「お母さんを知っているの」
「もちろんよ。だってあたしはあの人に作られたんだもの。おいおい話すわ。ともかく先に行きましょう」
どこに行くのかはわからなかったが、女の子はともかくふたたび歩き出した。紙袋は、外は汚れていたけれど中はきれいだったから、ビスケットの包みとお財布を入れ、人形は胸に抱いた。
人形は小さな声で女の子に長い物語を話した。かいつまんでいえば、女の子のお母さんは魔女で、だから女の子にも魔女の血が流れているのだった。そして、女の子の新しいお母さんも魔女だった。新しいお母さんは、女の子のお母さんの、そして今は女の子の魔法の力を奪うか、それがだめなら女の子の魔力が未熟なうちに殺してしまおうと考えていた。
にわかには信じがたい話だった。女の子は魔女も魔法も妖精も、人間のように話す人形も好きだったが、どれも物語の中のだけのものだと既に知っていた。でも、今手にしている人形は実際にしゃべっているし、新しいお母さんが自分を――認めたくはなかったが、殺そうとしているのも事実だった。
「それで、わたしはどうしたらいいの」
「まずはお母さんのお墓に行きましょう」と人形は言った。「そこでお祈りを捧げれば、お母さんの魔法の力は全部あなたに受け継がれるわ。そうすればどんな願いもかなうし、怖いものなんてなくなるわ」
「ほんとう?」女の子は眼を輝かせた。「あのデニッシュをまた食べられる? 学校にも通わせてもらえる?」
人形は面白そうに笑った。「もちろん、いくらでも食べられるし、通うことも通わないこともできるわよ」
こうして女の子は墓地に行くと決めた。
墓地に行くにはバスに乗らなくてはならなかった。幸い、この街をぐるぐるまわる小さな水色のバスの最初の便が走り始めたところだった。一番近いバス停から、女の子はバスに乗った。お財布を持ってきてよかったと思った。新しいお母さんが来る前にもらったお小遣いがまだ残っていたのだ。
こんな時間に女の子が一人でバスに乗れば、普通ならお巡りさんを呼ばれるはずだ。でもそんなふうにはならなかった。これもきっと人形の、ほんとうのお母さんの魔法の力なのだ。女の子はそう信じ、自分も魔女になる決心を固めて霊園前のバス停でバスから降りた。
霊園には何度か来たことがあった。怖い話に出てくるような陰気な墓地ではなく、明るく緑に満ちた、公園のような処だった。もう太陽はすっかり昇り、昨夜遅くに降った雨の雫が、木立の葉を虹色にきらめかせていた。女の子はほんとうのお母さんのお墓のある場所をちゃんと知っていたから、そちらへ向かって歩き出した。すると人形が慌てたように手の中で跳ねた。
「ちょっとちょっと、どこへ行くの。そっちじゃないわよ」
そして人形は女の子を、霊園の奥の林へと導いた。お父さんから近寄ってはいけないと言われていたあたりだ。立て札によれば、この霊園のできるずっと前から墓地として使われており、何千年も前から続く不思議な信仰に生きた人々が埋葬される場所だった。
人形の合図で女の子は立ち止まった。
白樺に囲まれた、まだ新しい、小さな石の墓だった。墓石は地面に置かれたタイルのような形をしていた。墓の傍には小さな洞穴を利用して作られたほこらがあり。中には真っ白い女の人の像が置かれていた。
女の子は墓石の没年を読んだ。
「ほんとうのお母さんの死んだ年じゃないわ」お母さんの名前を女の子は知らなかった。
「石に触れなさい」人形は構わず命じた。その途端、女の子はよろけて墓石に両手をついた。
それから何が起きたのか、女の子にはよくわからなかった。大きな輝きが見えた気がした。輝きは女の子をやさしく包んだ。温かく、柔らかな手が髪を撫でてくれたと思った。耳元でこんな声を聴いた。
「憎みあうのも奪い合うのももうたくさん。この力は私の代で終わりにします」
気が付くと、周りには大人がたくさんいて口々に何か言っていた。大きな腕が女の子を抱きしめた。しょっぱい、熱いものが女の子の頬と髪を濡らした。
お父さんだ。お父さんは幾度も女の子に謝った。脇にはお巡りさんと、あのバスの運転手さんが立っていた。
「しかしおまえ」とお父さんが言った。「どうしてお前の本当のお母さんの墓が分かったんだ」
「呼ばれたの」と女の子はまだ夢から覚めきっていない様子で答えた。「それで、お母さんが言ってた。二番目のお母さんにごめんねって。それから、三番目のお母さんに魔法はあげないって。力は全部自分が持ってゆきますって」
「ともかくこの子はゆっくり休ませたほうがいいですな」とお巡りさんが眼に涙をためながら言った。
家に帰ると新しいお母さんはもういなかったし、二度と帰ってはこなかった。
お父さんは三回目の、いや、四回目の結婚はせず、世話好きのおばさんのような通いのお手伝いさんの力を借りて女の子を育た。もちろん女の子は秋からちゃんと学校に行けたし、そのあと大学まで進学した。
口をきいたのはあの日だけだけれど、人形は今も女の子の下宿の棚でにっこりと笑っている。
女の子は人形に、小さいころから大好きだった北の国のおとぎ話の主人公の名前を付けた。彼女は母親の形見の人形の力を借りて継母のいじめを切り抜け、修行をして魔女になるのだった。
今女の子は自分で淹れたコーヒーを飲み、行きつけのベーカリーで安くなっていたりんごののデニッシュを食べ、べたべたの指をぬぐいながら分厚い辞書を引いている。大学では好きだったおとぎ話の書かれた国の文学を学んでいる。周囲からは珍しがらているし、収入には繋がりにくいと言われているけれど後悔はしていない。
ただ、自分があの日魔女になり損ねたことは惜しかったかなと考えている。
FIN
Kohana S Iwana
2023/11/21~2024/10/09