最初の卵(前)
小さな部屋に、わたしはひとり暮らしていた。
さいころのような真四角の部屋だった。低いベッドと着替えをしまう平たい櫃と、部屋と同じさいころ形のスツールがあった。壁には吊り棚と丸い時計が掛かっていた。
すべてが灰色の部屋の中で、布張りのスツールだけが目の覚めるような藍色をしていた。すべすべして柔らかいのに鉛のように重いので、動かすことはできなかった。
むき出しの壁にはドアがふたつと、小窓がひとつついていた。外が見える窓はなかった。
ドアの一方は洗面台とトイレとシャワーに続いていた。もう一方のドアは開けることができなかった。銀色のノブの下に鍵穴があったが、部屋に鍵は見当たらなかった。
小窓はその、鍵のかかったドアのすぐ脇にあった。横長の引き戸で、三度の食事はこの小窓から差し入れられた。蓋つきの皿に盛られた食事は温かく、少なくとも自分の舌には合っていた。
汚れた服やタオルは夜の間に消え、朝には新しいものが櫃にきちんと収まっていた。床にも棚にも埃ひとつなかった。隅に箒とちりとりが立てかけてあったが、わたし自身が使うことは滅多になかった。
わたしが眠っている間、あの、鍵のかかったドアが開いて誰かがそっと入ってくるのだ。物音ひとつ立てずに部屋を掃除し、ごみ箱を空にし、着替えを置いて影のように出てゆくのだ。その人は掃除にあの箒とちりとりを使っているのだろうか。
食事を差し入れてくれるのは、いつも同じ白い手だった。指は丸く、爪はきれいな桜貝の色をしていて、薬指に金属の細い指輪を嵌めていた。
小窓の引き戸が開く前には足音が聞こえた。軽い、踊るような足音だった。手と足音から女の人だという気がした。掃除をしてくれるのもきっと同じ人だ。
誰だろう。お母さんかしら。看守かしら。わたしは罪びとなのだろうか。それともあの人は看護師さんで、わたしはなにか怖ろしい病原菌を持っていて、周りに伝染さないよう閉じ込められているだろうか。会って確かめたかったけれど、時計の針が十時を指すと魔法のような眠気に襲われるので、寝ずにいる努力は早々に放棄していた。
欲しいものがあればメモ用紙に書き、スツールの上に置いておくと大抵は叶えられた。チョコレートとかパズルとか、水色の果物とか、変わった味の歯磨き粉とか。
ある日、思いつめたわたしは続けざまにこんなメモをスツールに置いた。
「ここはどこで、あなたが誰なのか教えてください」
「出口のドアのカギをください」
「外が見える大きなガラス窓をください」
「わたしの名前と年齢を教えてください」
鏡を見る限り、わたしは美しくも醜くもない若い娘だった。でも、それ以上のことは自分でも何もわからなかった。どのメモも朝にはなくなっていたが、肝心の願いが叶えられることはけっしてなかった。
やがてわたしは諦めた。今迄もこんなふうに、さまざまなものを諦めてきた気がした。だけど、いつ何を、何のために諦めたのか、思い出すことはできなかった。
知ることを諦めたわたしが頼んだのは本だった。ここに来る前どこで何をしていたのか記憶にないのに、メモに「本が欲しい」と書いた日のことは覚えている。
初めて届けられた本はひと抱えもの大きさで、えんじ色の立派な表紙がついていた。表と背には蔓と花と、花弁の間にあそぶ蝶が明るい金で捺されていた。
遠い国の神話を集めたものだった。月は美しい娘をさらい、青年は月をまじないをかけた矢で射落とした。別の言い伝えでは月はかつては天界をさまようほうき星で、ある若者が網で捕え、夜空を照らすよう命じた奴隷だった。
太陽についてはこんな物語があった。太陽は昔は今の七倍の大きさで、その頃世界は巨大な獣たちに支配されていた。ある日、獣の傍若無人さに腹を立てた太陽が天も地も焼きつくし、勢いで自分自身も焼きしぼみ、今の大きさになってしまった。獣は滅び、地下深に逃げのびた人間たちがその後の世界の王となった。
単調な暮らしの中での数少ない楽しみが、工夫を凝らした三度の食事と、頼むたびに数冊ずつスツールの上に置かれる本だった。
受け取った本はまず吊り棚に並べ、背の飾り文字をしばらく眺めた。厚ければ厚いほど嬉しかった。重ねれば踏み台にもなりそうな厚さの、全三冊の冒険物語が届いたときには狂喜した。
どの本も面白かった。どの本も惜しむようにゆっくり読んだ。読み終わればまた本が欲しいとメモに書けばいいのだが、こんなふうに返されるのが怖かった。
「あなたは世界中の本を読んでしまいました。もう新しい本はありません」
わたしはこの世にどれだけの本があるのか知らなかったし、どんなにあっても足りないと思っていた。
†††
ある日の午後の三時半、わたしはまた本を一冊読み終えた。
異国を舞台にした冒険物語だった。故郷を飛び出した王子が仲間と一緒に海を渡り、とある王国にかけられた呪いを解く話だ。王国の森の奥には打ち棄てられた都市があり、中央の塔にはかつてこの国を治めた女王のたましいが眠っていた。すべてを投げうち国を守った女王だったが、裏切者の大臣によって悪い魔女に仕立て上げられ、窓ひとつない部屋に幽閉された。呪いはそんな彼女の無念から来るものだった。
内容もさることながら、章ごとに数枚挿入されるペン画や色刷りの口絵も素晴らしかった。
読み終えた後、わたしは口絵のさかまく海を、瑠璃と翡翠に銀のしぶきをちりばめた波間に揺れる帆船をじっと眺めた。わたしは本物の海を見た覚えがなかった。磯臭いって、いったいどんな匂いだろう。
それから、いわれのない罪で閉じ込められた王女と自分を重ねて少し泣いた。自分にも、ここから出してくれる人が現れればいいのにと思った。できればわたしが生きているうちに。だけどあの白い手の人を呪う気にはなれなかった。
あと二時間もすれば夕食の時間だ。本はまだ一冊残っていたから、スケッチブックと色鉛筆を頼もうと思った。自分でも絵を描いてみたくなったのだ。
けれどもその日、ドアの脇の小窓は開かなかった。ひたひたという足音も聞こえなかった。
外で何かあったのだろうか。あの、身の回りの世話をしてくれる手がなかければ、わたしは生きてゆくことができない。孤独や不潔さには耐えられても、食べ物がなければここで飢え死にするしかない。
心配でメモを書く余裕もなく、その日は早めに床に就いた。白い手の人より、一瞬でも悲劇の女王に憧れた自分を呪った。馬鹿なことを考えたから罰が当たったのだ。
幸い、寝巻と替えは三日分用意されていた。読んでいない本もあと一冊残っている。もしかして明日の朝にはいつものように小窓が開いて、何もなかったかのようにパンと炒り卵とベーコンとサラダ、それに紅茶と果物が差し入れられるかもしれない。
この部屋に来て初めての、眠りの浅い夜だった。まどろみにたゆたいながら、あまい花のような匂いを嗅いだと思った。あの白い手の人が来たのだろうか。確かめたかったけれど、瞼も腕も脚もマットレスに沈みこんだままだった。ただ足音も、鍵を回しドアを開く音もしなかったと思う。
翌日の朝、時計は7時を回っていた。朝食の時間だ。でも誰もやってこなかった。お腹はぐうぐ鳴り始めた。そんなことは覚えている限り一度もなかったからびっくりした。
お腹の音が収まると、胃のあたりがぐっと押されるような空腹が襲ってきた。こうなると本を読む気にもなれなかった。毛布にくるまり、丸くなってしばらく眠った。