最初の卵(中)

 夢を見た。

 夢の中で、わたしは小さな子供だった。グレイのワンピースを着ていた。色は地味だが、襟元のボタンは本物の貝だった。
「感謝して、大切に着るんですよ」
 そう言われたのを覚えている。ワンピースは古着で、元々はお金持ちのお嬢さんのものだった。声は高くしわがれて押しつけがましかった。右の人差し指にぎらぎら光る紫の石をつけていた。あの白い手の人では絶対ないと、夢の中でもうひとりの自分を見ながらわたしは思った。
 グレイのワンピースに黒いタイツ、地味な茶色い靴を履いたわたしは、いやに大きな古い家に住んでいた。広すぎる庭は藪に覆われ、朽ちた石像や、乾いた枯れ葉の詰まった噴水があった。手入れのされない花壇には、はるか昔、華やかに着飾った人がたちが屋敷を出入りしていた頃に植えられた水仙の、孫の孫のそのまた孫たちが弱々しい花を咲かせていた。
 屋敷には大勢の子どもと、子どもの世話をする大人たちが暮らしていた。高い声の女性はそこでは先生と呼ばれていた。背は声と同じく高く、蝋のように白い額はちりめん皺で覆われていた。
 かつて宴会が開かれていたホールは食堂に、舞踏会が行われていた部屋は遊戯室に使われていた。紳士や貴婦人が夜を過ごした寝室の半分には、鉄製の小さなベッドがひと部屋につき五台ずつ詰め込まれ、残りの半分はがらくた置き場に変わっていた。
 親を亡くした子供たちが、次の養い手が見つかるまでの間暮らす施設だった。他の子たちはグループを作り、戦争ごっこやままごとをしたり、グループ同士で同盟や条約を結んだりしていた。わたしは特に友達が欲しいとも、どこかのグループに入りたいとも思わなかった。
 その頃、わたしは既に読み書きができた。普通の子より何年も早かった。がらくた置き場には埃をかぶった本が大量に積まれていたから、こっそり持ち出しては、自分のベッドで、庭のベンチで、遊戯室の隅の暗がりで読み耽った。配給の自由帳は自作の物語で埋められた。そこで配られるノートはどれもざらざらしていて書きづらかった。
 大きな緑の眼をしたおさげの女の子が、ある日わたしにこうねだった。
「いつも本を読んでいるなら、たくさんお話を知ってるんでしょ。何か話してよ」
 時々ゲームに誘ったり、とぼしいおやつを半分分けてくれたりする子だった。単純なゲームも干からびた焼き菓子もたいして好きではなかったが、なにかと気にかけてくれる子がいるのは悪い気はしなかった。だから、前の晩頭の中で作ったばかりの、遠い南の国に住む巨大な猫の話をした。
 黒い斑点を散らした金の毛皮を持つ猫は、幼い王子の親友だった。突然の戦争で国が滅ぼされた時、獣は王子を背中に乗せてそっとジャングルに分け入った。それほど身体の大きな猫だったのだ。
 それから長い時を経て、黄金の猫は成長した王子とともにみずからの国を取り戻した。老いた猫はその後、庭園に作られたガラス張りの小屋で部屋で余生を過ごした。
 内容はかなりいい加減で、辻褄の合わない部分がたくさんあったが、獣の描写は真に迫っていた。彼女はうっとりとため息をつき、途中から集まってきた子たちも満足そうに頷いた。
「ねえ」それまで一度も口をきいたことのなかった巻き毛の女の子が言った。「他にももっと、お話して」その声に、部屋の向こうで遊んでいた男子たちまで集まってきた。
 そのときどこかから、猫か野犬の唸り声のような音が聞こえた。
 子どもたちはざわつき、大人たちも青ざめて騒ぎ出した。
 男性たちが一丁しかない銃と、鎌やシャベルやナイフを手に庭を巡った。先生が子どもたちの名を呼び、人数をかぞえた。それからみな寝室にやられ、丸まる一週間、庭遊びは禁止になった。

 八日目の朝、わたしは先生に呼び出された。
「院長があなたにお会いしたいそうです。荷物をまとめてすぐにいらっしゃい」
 布の手提げに着替えと本とノートを詰めたわたしが、連れてゆかれたのは三階だった。チョコレート色の扉の向こうはかつての屋敷そのままに、小さな絵画や東洋の山々が描かれた陶器や、分厚い絨毯で飾られていた。
「あなたを引き取りたいという人がいるの」
 カトレア色のカーテンを背に丸顔の女性が言った。不自然に黒い髪は高々と結い上げられ、むくむくと肥えた指は五色の石で飾られていた。ミルク色のブラウスの豊かな袖が動くたびに、むせかえるような香水の匂いがした。
「お迎えまで十日かるの。その間に何かあっては大変だから、特別なお部屋にいらっしゃいね」
 特別な部屋も三階にあった。
 小さな寝室には金持ちの娘が使うような愛らしいベッドと、真っ白に塗られたタンスと、肘掛のついた小さな椅子が置かれていた。わたしはたったひとつの荷物をタンスに押し込み、ベッドに身を投げ少し眠った。
 これから迎えが来るまで、この部屋から出てはいけないのだった。浴室もトイレもあるから不自由はないはずです、むしろ感謝してしかるべきですよ、と言って先生はドアの錠を下ろした。
 食事は胚芽の混じった硬いパンと得体の知れない肉の浮いたどろどろのシチューから、柔らかいバターを添えた白いパンに厚く切った肉、色鮮やかなサラダや見たこともない果物に変わった。小さな風呂場には、軽石と硬いタオルの代わりに水色のシャボンと泡のような薄布が置かれていた。
 窓からは屋敷の庭が見下ろせた。十日前には自分も他の子に混じり、古いベンチに座って本を読んだり、石像のひとつひとつにこっそり名前を付けていたりしていたあの庭だ。
 藪や草はすっかり取り払われていた。地味だったり派手だったり、つぎがあたっていたりフリルだらけだったり、繕われ、洗われている以外はまちまちの服装の子が、むき出しの石畳や乾いた土の上で取っ組み合い、叫んだり駆けまわったりしていた。

 わたしはその十日間を、一冊だけ持ち込んだ本を繰り返し読んで過ごした。

 ぴったり十と一日後の午後、わたしはもみの木色のワンピースを着て大通りを歩いていた。服はおさがりではなく特注の新品だった。
 誰かと手を繋いでいた。あの白い手だ。あの日の手は野の花のような香りがして、触れると柔らかかった。今と比べて皺が少なく、ふっくらしていた。
 秋だった。並木が赤や黄色の葉をはらはらと落としていた。新聞売りの、「またもや大勝利! わが軍は無敵だよ!」という声が真っ青な空に響いていた。地味なコートに帽子をかぶった髭の男が馬鹿にしたように舌を鳴らした。買い出しの大きな籠を下げたおばさんたちが、なにかひそひそと囁きかわした。
 白い手の女性は、新聞を一部買うと心持ち足を早めた。角を曲がると、薬指の細い指輪は銀から赤に、薄暗い小道に入ると赤から紫に色を変えた。
「新しいお父さまは変わっているけど、悪い人じゃないの」売り子の声が遠ざかると、脚を緩めて彼女は言った。「たまに返事をしなくなるのは、研究のことばかり考えて他のことを忘れてしまうからよ」

 わたしもその新しいお父さんに忘れられたのだろうか。それであの人白い手の人も、ここには来なくなってしまったのだろうか。
 あのとき「あなたはわたしの新しいお母さんなの?」と訊いておけばよかったと思った。