最初の卵(後)
目が覚めた。
壁に凭れてベッドに座り、昔のことをもっと思い出そうとした。
一度だけ会った“新しいお父さん”は、想像していたより若く見えた。でも、お面のような、不自然に皺だけのない顔だった。
オレンジのスタンドがたったひとつともるだけの暗い部屋、本棚に覆われた壁、雑然と積まれた書きつけの束、埃とたばこと珈琲の混じりあった匂い。
その部屋で長い話を聞いた気がする。話はとりとめがなく、夢の中で耳にする見知らぬ人の呟きのようだった。それでもかろうじて分かったのは、今戦争をしていること、じきにこのあたりも危険になるということ、世界中が戦争をしているから逃げる場所はどこにもないこと、だからわたしはの地下の部屋に隠れなければならないのだ、ということだった。
「そこなら絶対に安全だ」とお父さんは頷いた。そして、「お前を守ることが、ひいてはこの世界を守ることなのだよ」と付け加えた。白い手の女性はわたしを抱きしめて少し泣いた。
それからわたしは彼女に連れられて長い階段を降り、厚い小さな戸をくぐり、青いスツールの置かれたこの部屋に入れられた。後ろで錠が下りた。屋敷のときよりは軽い音だった。
それからはずっとここで暮らしている。与えられたものを食べ、届けられるものを読み、日に三度の水薬を飲み、部屋を満たす夏草の香りの中でぐっすり眠った。
ここに来たばかりの頃、幾度か弱い揺れを感じた。どこかに爆弾が落ちたのだろうか。それとも地震だろうか。でも、ここが安全なのはどうやら本当らしかった。
これ以上考えても仕方がない。わたしは部屋を調べることにした。空腹に耐えつつ起き上がり、四方の壁を撫でまわし、櫃の中を探り、床を隅から隅まで叩いたり押したりした。
スツールの、上から指三本分のところに細い継ぎ目が見つかった。継ぎ目に合わせて爪をずらすと隙間ができた。指を差し入れ、重い蓋を持ち上げた。
中には水の瓶と、紙袋と着替えが入っていた。袋の中はビスケットとドライフルーツとチョコレートだった。
わたしは拍子抜けしてその場にぐったり座り込んだ。それからともかく水を飲み、ビスケットの包みを剥いて数枚口にした。チーズ味のビスケットはぱさぱさしていて幾度も喉に詰まったが、水で流し込むとともかく力はついた気がした。残りはとっておこうと思った。
それからシャワーを浴び、櫃の中の着替えを無視して箱の中の服を着た。白い光沢のあるゆったりとしたワンピースで、今迄に袖を通したどんな服より着心地がよかった。
スツールの底には手提げ袋と小さな金の鍵と、灰色のノートと硝子製の青いペンが残っていた。袋は服と同じ、つやつやとした布でできていて、鍵の頭にはつる草の飾りがついていた。ノートは物語の本のように厚かった。ペンの蓋を開けると夏草の匂いがした。毎晩、眠る時間に部屋に漂っていたのと同じ香りだ。
わたしはベッドを直して服とタオルを汚れものの籠に入れた。それからふと思いついて初めて自分で部屋を掃除し、あの本の海の絵をもう一度眺めて棚に戻した。
手提げノートとペンと食糧を収め、ドアに近づき、鍵穴に金の鍵を差し込んだ。回すとかちっと音がした。ゆっくりとドアが開き、どうしたわけか階段ではなく暗い通路が現れた。
通路は白い部屋に続いていた。空っぽの、ドーム状の部屋だった。塩の砂漠か氷の大地と見まごう程に広かった。
数歩入ったところに白木の机と椅子が置かれていた。わたしは引き寄せられるように椅子に座り、当然のようにペンとノートを取り出した。
ノートを開くと最初のページにこう書いてあった。
「どんな草をお望みですか?」
少し考えて答えを書いた。素足の裏を柔らかな緑の草がくすぐった。
「どんな花をお望みですか?」
わたしは知る限りの花の名を書いた。それでも足りない気がしたので、ずっと前に見た名も知らぬ花や、本で読んだだけの実在するかもわからない花や、たった今自分で考えた花も書き足した。色とりどりの花であたりが満たされた。
それからわたしは雲や、鳥や、草の間に隠れ棲む生き物たちを産みだした。海について問われた時は頭の中でじっくり考え、一語一語丁寧に書いた。帆船を書き加えることも忘れなかった。次は魚、次は森、森に棲む獣たち。それから‥‥それから‥‥。
わたしは世界を創り続けた。
†††
男と女が世界の縁に腰掛けていた。
世界がいつか滅ぶことは皆が承知していたが、世界自体が滅ぶとは誰も思っていなかった。そうだ、私を除いて。男は得意げに鼻を鳴らした。
世界の崩壊について、男は数百年前に予知していた。原因は戦争でも天災でもなく、世界そのものの衰退だった。神が作りたもうた世界がいつか滅び、なくなることは、多くの神話や予言、聖典で語られている。しかし、人びとはそれを世界のおもて、人間の住まう大地の滅びとしかとらえてはいなかった。
男はとうに永遠の命を得ていた。彼がたったいひとり愛した女はかたくなで、彼の造った不老薬をなかなか口にしようとしなかった。
あの娘が部屋に来て、初めてものを産みだしたいと思った日、つまり自分の力に目覚めた日に、世界を支えていた最後の柱が崩れ落ちた。振動も音もなかったから、ふたりを除いて世界の誰も気付かなかった。いや、既に人びとは死に絶え、かろうじて生き延びた者にも気づくほどの余力はなかった。
二人の建てた研究所には、長い螺旋階段があった。地下ではなく、世界の底へ降りるための階段だ。二人は細いらせんを下り、何億年とこの世界を支えてきた柱の最後の崩壊を見守った。
二人の前で、世界は切ぎれに散らばった。太陽も星も月も消え、あたりは真の闇となった。闇というものが残っていることすら不思議だった。
巨大なドームと古いビルが身を寄せ合う研究所へと戻る途中、男は星の名残りを捕らえてポケットに入れた。女は滅びそびれてさまよう薔薇をそっと捕まえ、髪に飾った。
その間に、娘は力でスツールの蓋を創って中身を取り出し、世界の創造を始めていた。空腹のあまり食糧まで出したのはさすがに想定外だった。
「あの子と新しい世界の行く末を見守らなければ」そう言って女はやっと甘苦い丸薬を飲んだ。
空っぽの空間に、研究所と、運よく滅びを免れた木が一本浮かんでいた。
昔読んだお話みたい、と女は思った。世界が亀に乗って浮かんでいる話。でもふたりが作ったのは亀ではなく、次の世界を産みだすための卵だった。
「ドームが満ちれば」と男が感慨深げに呟いた。「中の生命があふれ出てこの真空を満たし、新しい世界が始まるのだ」
「神さまにでもなるつもりみたいね」
「まさか、そんな面倒な役割はごめんだ。創造主は彼女だ。ぼくはただ、これから生まれる世界の行く末を面白がって見ているだけだよ」
「卵を食べたいわ」ふいに女が言った。「あの子、鶏を創っていないかしら。もし卵が産まれていたら、あの子にオムレツをごちそうしてなにもかも教えてあげましょう」
「自分が創造主だって?」
「好きなだけものを書いたりお話しをつくったり――そうね、“創造”してもいいって」
ドームの小さな机では、娘が早くも最後のページを埋めようとしているところだった。
FIN
Kohana S Iwana
2024/04/29