楔(後)

  翌日、わたしはまた海へ行った。あの猫が早速現れ、ついて来た。
 一度壊れた見えない壁は、自由に抜けることができた。一度降りた浜はもう少しも怖くなかった。一度足を洗った波は、踝の周りに白い泡を立てた。帽子を脱いで蒸れた頭を少し扇ぐくらいでは、火ぶくれになどならないとわかった。
 通りと草と、砂の上を行きできるくらい自由になったわたしは、グレイの猫と一緒に人けのない浜をぶらついた。あの人はいなかった。別の浜に向かったか、村に帰ったのかもしれない。でも、この浜の砂が気に入っているようだったから、こうして通っていればまた会えるかもしれなかった。
 貰ったペンダントをつけてみた。長く引き伸ばした雫にも、磁石か時計の針にも見えるペンダントは、硝子の割に妙に軽く、なのに鎖ばかりが重く、すぐに首が痛くなった。だからわたしはペンダントを、引き出しの奥のキャンディの缶にしまった。とうの昔に空になった缶の蓋には子猫と遊ぶ金髪の天使が描かれていた。
 どのみちペンダントをつけて過ごすことはできなかった。母に見つかればどこで手に入れたかしつこく訊いてくるだろう。訊かれれば正直に答えてしまうだろう。浜に降りたこと、知らない男性と話したこと。外で帽子を脱いだこと、猫の頭を撫でたこと。その猫を連れて今も浜に通っていること。ひとつだけでも母の病気を一気に悪化させてしまうだろう。ペンダントは取り上げられ、粉々に砕かれてしまうだろう。猫は見つけ出され、追い払われてしまうだろう。

 でも、わたしが罪を告白するまでもなかった。母の病気はなだらかな下り坂から崖道を転げ落ちるように悪化し、木枯らしの吹くころには遠い街のホテルのような病院に入院した。

 父は仕事と母の見舞いで忙しかったから、わたしは屋敷にひとりきりになった。
 お手伝いさんのおかげで不自由はなかった。膨らみきったパンだねのように太り、薄くなりかけた縮れ毛を頭の後ろでお団子にしているお手伝いさんは、自分の立場を充分にわきまえていた。だから、長く患っていた奥さまがついに病院に入られたとか、ご主人さまが滅多に家に帰らず、たまに戻るといつも違う香水の匂いをさせているとか、ひどく痩せてはいるものの、奥さまよりはよっぽど元気そうなお嬢さまが、学校にも行かせてもらえず長く放っておかれているとか、そうしたことにはけっして口を挟まなかった。ただ洗濯をし、掃除をし、暖かな料理を作り、わたしが喜ぶようにと赤いジャムを巻き込んだ小さな菓子を焼いてくれた。
 わたしはブラシのかかった上着と、つやの出るまで磨かれたブーツ姿で猫と一緒に浜をぶらつき、他の子たちが学校を終える時間には家に戻り、雨の日には部屋にこもって本を読んだ。泊りがけで世話をしてくれるようになったお手伝いさんが夜温めてくれるミルクと、「歯は磨きましたかね」と訊ねる声が好きになった。

 うす墨を流したような空から霙の落ちる寒い日だった。本を読んでいると、お手伝いさんが部屋のドアをノックした。
「裏門で猫が啼いているんですが、入れてやってよろしいですかね。あんまりかわいそうなんで」
 わたしは飛び上がり、本を置いて裏口に駆けて行った。濡そぼったあの猫がすっかり正気を失って、枯れ枝の下で自分の尻尾を追いかけていた。
 お手伝いさんは古いタオルで猫よく拭いてやり、湯たんぽ用の湯を沸かした。幸い猫に怪我はなかった。
「犬をからかって吠えつかれたのかもしれませんね。このあたりではよくあるんですよ」
 その日から、わたしは猫と一緒に暮らすようになった。猫すんなり飼い猫になり、ほとんどの時間を家の中で過ごし、散歩には必ずついて来た。夜眠るのはわたしのベッドの上だった。
 父は相変わらず忙しく、冬至が近づいても転入の話は出なかった。新しい家では冬至祭も祝われないようだった。
 猫は毛布の上で眠ってばかりいた。潮風の刺すような冷たさと轟く海に驚いて、わたしも一日のほとんどを家の中で過ごすようになった。夏の夜を彩っていた別荘地の灯は消えていた。あの黒い渦に攫われても、夢の国には行けないだろうと思った。
 ある日、お手伝いさんが遠慮がちに、医者になった息子が昔使っていたという教科書を持ってきた。どの教科書もとてもきれいで、細い字であちこちに書き込みがしてあった。わたしは本文を読み、書き込みを読み、リビングに揃っている事典を開いた。そんなふうに過ごしていると、時間がいくらあっても足りない気がした。
 夜寝る前には日記を書いた。その日勉強したこと、猫の様子、お手伝いさんから聞いた話、新聞で読んだニュース。それが終わると内容は自分の空想に移っていった。拙い夢にはいつもあの青年が現れた。

 その日書いたのはこんな夢だ。

 大人になったわたしはペンダントを首に掛ける。もう少しも重いと思わない。
 それからわたしはひとり浜辺に降りてゆく。なぜか猫はついて来ない。浜ではあの男の人が待っている。彼の手が触れるとわたしは硝子の人形になり、ころんと砂の上に落ちる。彼はわたしを拾い上げ、砂を払い、布切れで丁寧に包んで背負い袋の中に入れ、遠いどこか、別の浜に向かって歩いてゆく。

 嘘だ。

 ペンを置いてわたしは立ち上がった。人間は硝子にはならないし、わたしはこのままではちゃんとした大人にはなれないし、この家を出てどこか遠くに行く夢だって叶わない。

†††

 冬至祭の一週間前だった。近所の家々もあの大通りも、役場の前に広がる小さな広場も、お祭りの支度に沸き立っていた。
 風のない、でも中部の街で育ったわたしには充分に寒い日だった。もう十日以上、空は灰色の雲に覆われていた。
「年明けまでの辛抱ですよ」とお手伝いさんが言った。「冬至を過ぎれば太陽が戻ってきますから、愉しみにしてらっしゃい」
 猫と一緒に校門を抜けた。踏み固められた校庭を、着ぶくれた子たちがきらきら光るモールを振り回しながら駆けていた。
 小ぢんまりした木造校舎の壁に沿ってぐるりと歩き、眼についた窓を覗いた。人影らしいものが動いているけれど、硝子が曇っているせいでよく見えない。
 つま先立ちしてコツコツ叩くと、窓ががらりと横に滑って丸顔の女の人が顔を出した。
「どうしたの」前髪をピンで留め、松葉色のとっくりのセーターを来たその人は、わたしの顔とボアつきのコートと、足元の座る猫を見て首をひねった。「あなた、この学校の子じゃないわね。もしかして‥‥」
 相手が言い終わるのを待たずにわたしはまくしたてた。
「この夏、海の傍の屋敷に越してきた者です。わたし学校に入りたいんです。だってほんとうは病気じゃないし、病気なのはお母さんのほうなんです。お父さんに頼みたいけど、忙しくて家に帰ってこないんです」不意に鼻がむずかゆくなり、わたしは背中を震わせてくしゃみをした。
 その人は学校の先生だった。とにかく上がりなさい、と窓の横のドアを開けてくれた。直接校庭に出られるように、どの教室にも小さな出入り口がついているのだった。

 真っ黒いストーブがごうごうと燃え、室内は気持ちよく乾いていた。机の半分は壁際に積まれ、残りは中央に寄せられてテーブルを作っている。そこに集まった子たちが切り取ったり縫い合わせたり、貼り合わせたり繋げたりしているのは、冬至祭の野外劇の衣装とかがり火につける飾りらしい。
 太いおさげの女の子がわたしに気付き、顔を上げた。
「あなた、夏に浜の近くにいた子でしょ、いつも帽子と日傘をかぶって」
 突然の言葉に気後れして答えられずにいると、先生がきっぱりとした口調でこう言った。
「街から越してきたの。年明けからこの学校に通うのよ」
 その子は歓声を上げ、わたしのために椅子と色紙を運んできた。
 猫はストーブから少し離れた台の上、心地よく部屋中を見渡せる場所で毛づくろいを始めた。わたしは先生からミルクで煮だした紅茶と大きなビスケットを貰い、周りに教えてもらいながら色紙で花や雪や葉っぱを作った。

 わたしはセーターの上からペンダントにそっと触れた。
 彼が浜を訪れることはないだろう。あのペンダントがほんとうに彼の作ったものなのか、本当に硝子なのかもわからなかった。来年の夏至祭りの出店で、そっくり同じ安物のおもちゃを見つけてもたいして驚かないだろう。
 今のわたしには、お手伝いさんと猫と先生と、できたばかりの友達がいた。見えない壁が作られても、これからはたやすく壊してずっと歩いてゆけるだろうと思った。
 その先に彼がいるかどうかは、もうどうでもいいことだった。


FIN
Kohana S Iwana
2024/05/17