楔(前)

 わたしは病気だった。大人たちはそう言っていた。海の近くに越して来たのも、ほんの少しでもわたしが元気になるためだった。
 どんな薬よりも自然の中で過ごすのが、こうした病気には一番いいのだ。大人たちはそんなふうに考えていた。父が、白衣を着た医師が、親戚のおばさんたちがそう囁きかわしていたのをぼんやりと覚えている。
 だから、新しく移り住んだ町は自然というものに溢れていた。青と紺と藍と黒とが指先を絡めるように混じりあい、銀のしぶきに縁取られていつもゆらめいている海。さくら貝色の岩肌を海風にさらす小高い丘。こんもりと茂る深緑の森。
 その代わり、他のものはほとんどなかった。食料品店に雑貨屋に惣菜屋、魚料理しか出ない定食屋の並ぶ“大通り”は、道幅こそ広いものの、子どもの脚でも十分歩けば終わってしまう。気まぐれに現れる小路が不思議なくらいに静まり返っているのは、そのあたりの店が夜しか開かないからだ。そして、町にひとつしかない学校は夏休みに入ったばかりだった。
 そんな町から見晴らせる丸い湾の向こう岸を、異国の遺跡を模したホテルと人形の家のようなヴィラが埋めていた。湾の水は明るいエメラルド色で、バカンスに来た人びとが三日月形の帆を張った白い小舟を浮かべている。陽が傾くと帆は金色に染まり、湾全体が笑いさざめいているようだ。ひなびた大通りからいったいどの道をたどればあの楽園に行き着けるのか、わたしには見当もつかなかった。
 もっともわたしが越してきた家も、その町ではなかなか立派なものだった。二階建ての古い屋敷で、石垣に囲まれた庭には覚えきれないほどの樹々が植わっていた。正面の黒い門は締め切られていて、わたしも父も、通いのお手伝いさんもアーチ形の細い裏門から出入りした。
 わたしの部屋は二階の西の角だった。ベッド脇の窓からはあの夢のような湾が、デスクの前の窓からは夜空のような海が見えた。廊下に出れば淡いもも色を秘めた丘が控えていた。
 海は昼も夜もさざめいていていたから、いつも風の中にいるようだった。本物の風の吹く日は庭の木々の葉擦れの音が重なり、海と陸との合唱になった。

 海辺の屋敷に越してくるなり母は言った。
「ひとりで浜に近づいては駄目よ。海はお前みたいな子をいつも狙っていて、機会があればさっと攫ってしまうんだから」
 それから母は、けっして途切れることのない海の音と、せっかくの陽差しを遮ってしまう庭の樹と、湾の向こうの華やかな家々に文句をつけ(見せつけられているみたい、と大仰に嘆いた)、さっさと寝室にこもってしまった。
 父はため息をついた。海辺に住みたいと言ったのは母だった。庭に樹がなければ陽の眩しさに文句をつけた筈だった。娘の病気のためでも田舎なんて耐えられない、せめて観光客の多い処がいいと騒いだのも母自身だった。
 元々神経質なところのあったわたしは、母の言葉に震え上がった。海は一瞬で異界への入口に変わった。これから何年も、ひょっとしたら大人になるまで、この怖ろしい場所で暮らさなければならないのだ。
 引っ越しで疲れているはずなのに、その夜わたしは眠れなかった。眼を開けて天井の隅を睨んだり、枕を幾度も裏返したり、薄い布団の下で膝を抱えたり、そんなふうに過ごす間も海はずっとうたっていた。
 幾晩か耐えると最初の恐怖は収まった。ビルの建ち並ぶ都会の部屋にいたころよりは、よく眠れるようになった。
 落ち着いて考えてみれば、海に攫われるのも悪いことではない気がした。海が自分を連れて行くのは、湾の向こうのあの別荘地よりずっとずっと美しい、覚めない夢のような処なのかもしれなかった。そこでわたしは、ふるいを通したような真っ白い浜で砂のお城を作ったり、日焼けなんか気にせずにただぼんやりと海を眺めたりして過ごすのだ。そして、きらめく水面にボートを浮かべて海のかなた、もっと広い世界に漕ぎ出して行くのだ。
 母は、浜というのはものは海から流れ着いたごみと、観光客が投げ捨てたごみと、野良猫の糞でものすごく不潔だから、そんな処で怪我をすればいっぺんで病気になってしまうし、昼間に帽子も日傘も持たずに歩き回ればひと晩で火ぶくれになって一生治らない痕ができるし、あの湾の馬鹿な人間たちのようにのんびりボートに揺られていれば、海に流されてそのまま死んでしまうのだといつもわたしを脅していた。
 だからわたしは母の言いつけを守った。小麦色に日焼けした地元の子たちが浜でなにかをつつきまわしたり、流木でシーソー遊びをしたり、磯に腕を突っ込んだりしているのを、いつも緑の草が途切れるぎりぎりの処から眺めていた。出掛けるときは曇りでもつばの広い帽子を被り、晴れた日には日傘を絶対忘れなかった。小舟に乗るのは少なくとも大人になってからと決めていた。その町は猫が多く、子どもたちは自分の猫を決めてかわいがっているようだったが、わたしはけっして動物には近づかなかった。
 地元の子たちは、おばあさんみたいに帽子と日傘で身を守り、猫の子一匹連れていない奇妙な女の子に最初幾度か眼を向けたが、声を掛けたりからかったりはしなかった。わたしは少しがっかりした。
 油絵を思わせる青色の海。南の花をそのまま映したような色のドレスやシャツの子たち。そして、薄茶のワンピースを着て帽子と日傘で白い顔を隠しているわたし。
 すべてが透明な壁に区切られて、収まるべきところにぴったりと収まっていた。壁を破り、ここと決められた場所から抜け出すのはとても難しそうに思えた。
 どこか遠くに攫われでもしなくては。

†††

 その人に出会ったのは、夏の終わりの午後だった。
 大人の男の人だった。年齢は二十代後半か、せいぜい三十くらいだった。いや、大人の歳なんて子どもにはよくわからないから、本当はもっと若くて、はたちそこそこだったのかもしれない。
 髪は淡い砂色で、海風にふわふわ揺れていた。洗いざらしの白いシャツに着古したジーンズ、それに明るいエメラルド色の上着を羽織り、浜に座って海のほうを向いていた。黒っぽい、ぼろぼろの背負い袋が丸い背中に寄り添っていた。
 その日、わたしはいつものように、母の言葉のつぶてから逃げるための散歩に出た。町の学校が今日から始まるのをわたしは知らなかった。前に住んでいた大きな街では、あと一週間は夏休みだったからだ。
 白い裏門を抜ければ母の叫びはけっして追っては来なかった。それでもミルクティー色のつば広の帽子と、真っ黒く塗られた日傘を手放すことはできなかった。
 家を出てすぐ一匹の猫に出会った。濃いグレイの美しい野良だ。わたしは母の、野良猫の不潔さについての長いながい講釈を思い出し、三角の耳が足首に擦りつけられるたびに身を躱した。それを猫は遊びだとでも思ったらしく、大喜びで浜までわたしについて来た。
 浜に他の子はいなかった。草地に立つわたしに気付くと男性は手を振った。もしかしてわたしにではなく、猫に振ったのかもしれなかった。
 猫はわたしの脚の間をするりと抜けて浜に飛び降り、とことこと男性のほうに駆けて行った。思わず後を追った。壁が払われた。気が付くと自分の靴が本物の浜を踏んでいた。
 実際に歩いてみると、浜はただの浜だった。夢のようにきれいでも、気分が悪くなるほど不潔なわけでもない。小さな生き物が砂に開いた穴の間を走り回っている。初めて見る生きたカニは絵本のように真っ赤ではなく、流木は遠くから見るように真っ黒ではなかった。砂の上に広がる波は青ではなく、光を透かした葉の色をしていた。
「この近くの子?」猫を撫でながらその人は訊いた。違う、とわたしはこたえ、それから慌ててそうなの、と言い直した。引っ越してきたばかりなの。でも、友だちの一人もいない、自分の猫の一匹も持たないわたしは、まだこの町の子とは言えなかった。
 夏の終わりの陽に暖まった砂を、男の人は掴んでは指の先からさらさら落とした。猫は落ちる砂を前足でとらえようと跳ね回り、人間のようなくしゃみをした。わたしも日傘を置いて、猫と一緒に貝殻を背負った小さな生き物を追いかけた。
 それから午後じゅう、その男性と話をした。わたしは話すことも話したいこともなかったから、相手の話を聞くばかりだった。
 暑い日だった。わたしは思わず脱いだ帽子で汗まみれの頭を仰いだ。猫ははためく帽子にじゃれついた。
 その人は駆け出しの硝子づくりだった。遠い西の、海と山に挟まれた村に窯を持っているのだと言った。その村では半分の家が硝子づくりで、硝子づくりの長男は父親の仕事を継がなければならなかった。
 わたしは硝子の材料も、どんな道具でどんなふうに、どれだけの時間をかけてつくるのかも知らなかった。だから、彼の話が事実なのか、子供だましの大法螺なのか判断がつかなかった。でも、自分は健康だと言い張って病気でない子どもを病気にしたがる親がいるのだから、自分と同じ仕事に就かせたい親なんてもっと多いだろうと思った。そして、そんな人ばかりが暮らす村があっても、少しもおかしくない気がした。
 そんなわけで、彼はよちよち歩きのころから父親の仕事場に出入りし、学校に通う歳になると、日暮れ前から遅い夕食の時間まで硝子を吹くようになった。親方はもちろん彼自身の父親だ。家では優しい父も、工房では鬼のように厳しかった。
 やがて彼は、父親が顔をほころばせるほどの硝子を作れるようになった。しかし、彼の父は自分の息子に甘かった。工房を一歩出れば、もっと透明でもっと滑らかで、もっと薄くて色鮮やかなガラスを作る若者はいくらでもいた。
 彼は父親を尊敬していた。自分が硝子づくりの家に生まれたことを誇りに思っていた。だから村一番の、その次は国一番の、いつかは世界一の硝子づくりになりたかった。
 彼は夢を叶えるために、自分専用の小さな窯を造った。そして、修行の傍ら材料の砂を集める旅に出るようになった。
「海の砂を混ぜて焼き物を作ると」とその人は言った。「思いがけない色になるんだ。特にこの浜の砂はいい色が出る」
「いい色って、どんな色?」
「窯から出すまでわからないんだ」
 それからその人は、友達になったしるしにペンダントをくれた。彼の言葉を信じるなら、この浜の砂で作った硝子のペンダントだった。夜空のように黒く、上部の丸い下向きの細い三角形で、光にかざして眼を当てると濃い虹の色が散った。
 別れ際に彼は幾度も猫を撫でた。「一緒に来るか」と声をかけたが、猫は乾いた砂の上に横になっただけだった。
「かわいそうに」と彼は猫の白いお腹をくすぐった。「湾の向こうの金持ちの客がひと夏だけかわいがって、休みが終わると棄ててゆくんだ」
 それでこのあたりに猫の多い理由が分かった。猫たちは、わたしの知らない道を通って別荘地からこの町に逃れ、動物を特別好きなわけではないが、生き物の自由を重んじる人々から魚を貰い、子どもたちの遊び相手になって暮らしていたのだ。
 猫はわたしの家の傍までついて来たけれど、門の中には入ろうとしなかった。
「またね」わたしは言い、猫の小さな頭を撫でた。猫の毛は、少し磯っぽいお日様の匂いがした。