父の部屋 (前)

 父が死んで十日も経っていなかった。
 その頃、わたしは死というものをよく分かってはいなかった。
 覚えているのはふいに閉ざされた父の部屋と、こわばった顔で部屋べやを行き来する見知らぬ人びと、そして慌ただしく運び出されたなにか大きな長いもの。
 触れられそうな静けさに閉じ込められた長い夜、そっと差し入れられた温かいミルクと、林檎のジャムを巻いた甘いパン。
 それからある朝、表門にぴかぴかの車が幾台も乗りつけた。かろうじて顔を覚えている従兄姉たちや、会うたび違う人のような気がするおじやおば、銀の髪を高く結った、たしかにどこかで見たことのある老婦人が、花のまどろむ庭をぞろぞろと歩きまわった。皆、カラスか夜か、死そのもののように真っ黒い服を着ていた。普段うるさいくらいに啼きたてている鳥たちが一斉に口を噤んだ。
 わたしもまあたらしい黒いワンピースを着せられ、車のひとつに押し込まれた。連れてゆかれたのは河の傍に建つ、大きな灰色の建物だった。ドーム型の天井近くに窓が切られ、サファイアを嵌め込んだような空が覗いていた。教会に似ていたけれど、わたしの一族に神に祈る習慣はなかった。
 よく見れば色合いも織り方も微妙に異なる喪服のひらめきの間に、誰かが横たわっていた。
 お父さんによく似た人だ、とわたしは思った。髪は張りを失い、肌は粉をまぶしたように白かった。女性のように長いまつげが重く伏せられ、うす青い唇には微笑みが浮かんでいた。
 父が好んだ鈴の形の花を渡され、深い眠りについているその人の胸に置いた。奇妙な形に組まれた指に傷はなかった。父は一年前、庭で左の中指を小枝に引っ掛けてぎざぎざの傷をつくっていた。
 だからこの人は父ではないとわたしは思った。
 しかし、それきり父はいくら待っても戻ることはなかった。

     †††

 あの日、わたしが父の書斎に忍び込んだのは、以前読んでもらった本をどうしてもまた見たかったからだ。
 幼いわたしが両手で抱えて持ち上げるのも難しいほど、大きな厚い本だった。葡萄酒色の表紙に金で蔓薔薇模様が捺されていた。細い葉脈に彩られた葉や、重たげに花弁を重ねる花や、仔猫の爪を思わせる棘の間に、タイトルの飾り文字がだまし絵のように隠されていた。 中にはわたしには星の数ほどにも思える物語と、ひとつの物語につき数枚、色刷りの美しい画が収められていた。
 父の書斎の砂色の壁は高い書棚で埋められていた。広々とした机は、どの引き出しも組みあがったパズルのように整理され、釣鐘草の形の古いランプは歪んだ光の輪を投げた。
 庭を見晴らせる窓の傍には、磨きこまれた小卓と、扉に虹色の貝をちりばめたキャビネットと、父愛用の肘掛椅子が置かれていた。その椅子で父の膝に乗り、厚い胸に凭れ、ゆっくりと読み上げる低い声を聴きながら、金のおさげにビーズを巻きつけた異国の王女や、銀の盆のような湖のおもてを滑る白鳥の群れや、異国人の眼には見えない獣を追って野を駆ける、あかがね色の肌の少年の絵を眺める時間が好きだった。星空を駆ける猫と共にわたしの心も空を翔んだ。
 わたしはそこをお父さんの部屋と呼び、伯母は勉強部屋と呼んだ。わたしにとって父は世界で最初に見た大人の男性だったが、父の十三上の姉にとっては、いつまでもかわいい弟のままだった。
「お父さんはいつ戻ってくるの」
 そう訊いても誰も答えてくれなかった。だからわたしは夢想した。お父さんは仕事で遠い処に、いつかあの本で見た、翡翠色の七つの屋根を連ねた塔のそびえる国か、褐色の岩山に刻まれた無数の窓に金のあかりが灯されている街か、古い二層の橋の下を大小の船が行き来する港町にいるのかもしれない。五色の紙のかざぐるまや、覗くたびに違う景色の見える硝子玉や、ひと振りでちょうど三分波音を聴かせてくれる人魚の像をたずさえて、いつか帰って来るのかもしれない。
 しかし、そのいつかまで辛抱強く待つなどできそうになかった。だからせめてあの本の絵を見たくて父の部屋に入ったのだ。

 書斎の鍵は開いていた。そもそも内側からしか鍵をかけられないつくりだった。
 あるじを待つばかりの部屋には、早くも埃がはびこりはじめていた。父がたまに吸っていた煙草の香りに混じって、湿った塵の匂がした。
 カーテンは閉め切られ、部屋の中は薄暗かった。わたしは軽く咳こみながら、重たい襞の隙間からこぼれる光と記憶を頼りに棚を探った。
 あの本は、ひときわ大きな書棚の隅に収まっていた。身体全部を使って引き出し、どうにか膝の上に置くと、重い表紙を持ち上げ開いた。眼の痛くなるような白いページに記された字は、幼いわたしには読めないどころか見たこともない、書き順の見当すらつかない遠い異国のものだった。
 ふいに、なにかを荒々しく叩きつける音がした。部屋の空気が乱され、わたしは埃と本と思い出とともに飛び上がった。開け放たれた扉からどうと流れ込む空気に、父の匂いがかき消された。
 ずかずかと入ってきたのは母ではなく、わたしの記憶に間違いがなければ伯母だった。
彼女が怒っていたのか驚いていたのかは覚えていない。その両方だった気がする。ひからびた長い指が本を奪った。骨ばった腕が瞬く間もなくわたしを抱えて部屋から外に引きずりだした。ブローチか指輪かベルトの石が、わき腹や腰に当たった。
 怒られた記憶はない。ただ自分の部屋にやられただけだ。他人の部屋のもののように思える戸が、冷たくばたんと閉められた。それから長い間、部屋から出してもらえなかったのを覚えている。鎧戸の下ろされた真っ暗な部屋に、毎日誰か、母でも伯母でもない人が金属の盆を運んできた。固く焼いた香草入りのパンにきつい匂いのチーズが添えられ、グラスの水には空気の粒が浮いていた。
 やっと外に出られた時には春の盛りになっていた。父がいなくなったのは雪解けの頃のはずだった。父と思しき人が運び出された日、たくさんの靴が踏みしだいたぬかるみに、さみどりの葉をまとう花が咲きみだれていた。

 すべてはわたしの記憶違いなのかもしれない。
 あの頃のわたしは字も読めないほど幼く、まだ学校へも通っておらず、話し相手といえば両親と、たまに訪れる親戚の人たちだけだった。そのせいか、わたしは現実を半ば夢のように、夢やおとぎ話をときに現実よりたしかなものと捉えるようなところがあった。