舟 2
ぼくと彼女が出会った施設は、小さな森と野の間に建てられていた。今思えば周囲の自然も人工のもので、ぼくたちが暮らしていたのは謂わば大きな公園の中だった。
週に一度、ぼくたちは建物から外に出て、自由に遊ぶことを許されていた。いや、正確には義務づけられていた。
入口の重い扉が開かれると、五歳から十歳の子たちはわっと飛び出し、思いおもいに野を駆けた。
ぼくは外が好きではなかった。世界が取り返しのない一撃を受けたあの日から色を失った空も、妙にぎらつく太陽も、風に含まれる焼けた金属のような匂いも苦手だった。薄暗い部屋の中で、ほの白いランプの明かりで勉強をしたり、本を読んだり、頭に浮かぶことを書き留めたりしているほうがずっとよかった。でも、決まった時間、日光を浴びて広い場所で身体を動かすことは健全な発育に必要なのだと先生は言い、ぼくを表に放り出した。
飾りけのないポーチを降り、四角い影の中から出て、妙に丈の揃った草を踏むと、ぼくはいつも眼が眩んだ。
虫の気配のない草原も、葉擦れの音はしても鳥の囀りが聞こえない森も、ぼくには異様なだけだった。あの日から四季はなかった。陽の光は年を通して鋭く肌を刺すように思えた。だから僕は外に出るときは、いつも長袖の上着を着て、フードを目深に下ろしていた。
無理やり外に出されたところで、行きたい場所もしたいことも特に思いつかなかった。そもそもこの広い敷地に何があり、どんな遊びができるのかさえ知らなかった。
くすんだ虹の掛かる空が怖かった。無としか呼べない色の中を飛ぶ黒い影を見つけようものなら、悲鳴を上げて卒倒する騒ぎだった。
そんなぼくはみんなの笑いものだった。先生はよく話を聞いてくれたし、あまりに症状が酷いときは薬を処方してくれたけれど、ぼくのことを面倒な子と思っているに違いなかった。
だからぼくはひとりだった。他の子は、少なくとも表向きは悲しみから立ち直り、仲間を、友達を、その中から親友をつくり、毎日楽しく過ごしているようなのに、ぼくだけが故郷の町の、家族の身体を埋めたままの瓦礫の間にひとり取り残されていた。
そんなぼくに声をかけてきたのが彼女だった。
彼女は東洋の生まれだった。烏の羽根のように、黒檀のように、おとぎ話の林檎で命を落とすお姫さまのように黒いまっすぐな髪は、眉毛の上で切り揃えられていた。灰色がかった茶色い眼は、どこか猫を思わせた。ぼくより半年早く生まれただけなのに、三歳は上に見えた。
「川に行ってみない?」と彼女は言った。さくら色の唇から発せられたのは、ぼくと同じ国の言葉だった。
びっくりたはずみでぼくは頷き、彼女と一緒に初めて広い野を渡った。彼女はおしゃべりだったから、踝に触れる硬い草の先も、からっぽの空も、風がそよぐたび鼻を衝く異臭もあまり苦にならなかった。土手を下るときにはフードをはねのけさえした。頭が湿気るほど汗をかいていたし、視界が狭いと危ないと思ったからだ。
灌木の茂みを抜けるとふいに川が現れた。ほかの子はいなかった。大人の足でならじゃぶじゃぶ十二歩で渡れるくらいの、小さな流れだった。
おそるおそる、ぼくは川に近づいた。澄みきった水の底で五色の石が揺れている。魚はいない。きっと蛙もいないだろう。
それでも川は賑やかだった。大きな黒い、三角の岩の周りで水が泡立ち、渦を巻いてごぼごぼと歌っていた。
ぼくたちは、近くに生えていた丸い大きな葉を舟に、青い実の房を人に見立てて川に流した。舟は、少なくともぼくたちが見ている間は、ひっくり返ることも沈むこともなかった。ただ、ひっきりなしにくるくる回ったから乗員は船酔いに苦しんだと思う。
ぼくが彼女の故郷の話を、笹と竹の違いや、月に帰るお姫さまの話や、竹のあれこれについて聞いたのはその時が最初だった。もっとも、彼女の国がどんなふうに滅んだのか、どれんなふうに彼女が助かり、この国に渡って来たのか、どんな幸運に恵まれて、今、ぼくたちとこうして暮らしているのかは、彼女はひと言も話さなかった。他の子たちと同じように。
代わりに彼女が語ったのは、空に浮かぶようにそびえる山、春に一斉に咲きほこる、うす紅と黄色の花々、秋になると炎の色に染まる森、やさしく穏やかで忍耐強い人びと、そして、そんな美しい国に伝わるお話の数々だった。
彼女は物語を語るのが上手かった。灰を使って枯れ木を満開にした老人の話に、死んだ妻をよみがえらせるために黄泉の国に下る男の話に、大工と鬼の駆け引の話にぼくは夢中になった。広い海を隔てているのに、小さいころ祖母や母から聞いた話と似たものがあるのも不思議だった。
なぜだろう。隣り同士の席でおやつを食べながらぼくたちは考えた。人間は遠く離れた処に暮らしていても、同じようなことを思いつくものだ、と、彼女は大人びた口調で言ったが、ぼくはそんなふうには思えなかったし、思いたくなかった。
「きっと」とぼくは薄い、身体にはいいがあまり美味しくはないお茶をすすりながら言った。「だれかが星じゅうをめぐって、ひとつの話を伝えたんだよ」
彼女は笑った「だとしたらすごい健脚ね、その人」育ちも生まれも外国の筈なのに、その子はぼくより難しい言葉を知っていた。「だけど、もし本当にそうなら、すごくすてき」
それから、ぼくと彼女は一緒に遊ぶようになった。
彼女は幾人か女子の友達がいたが、他の子のようにどこかのグループに属しているわけではなかった。ぼくは相変わらず一人で、ただ時々彼女と過ごす話すようになっただけだった。そのせいで男子からは、女と遊ぶ気持ちの悪いやつ、とからかわれた。
だけどぼくは気にならなかった。ぼくと彼女はやがて、互いに昔の名前で呼び合うようになった。施設に来る前の名を前を使うことは禁止されていたが、ほとんどの子がやっていることだった。ぼくにもやっとそんな悪事をはたらく“友達”ができたのだ。
ぼくの昔の名は書くほどもないくらいに平凡な名前だ。彼女の名は“あかり”と言った。あかりは自分の名があまり好きではないようだったが、ぼくは素敵な名前だと思った。