舟 3

 しかし、あかりとはそれから数年しか一緒にいることができなかった。施設でのカリキュラムを終えた子どもは、もっとたくさんの人が住み、もっと難しい勉強のできる場所に移る決まりだったからだ。
 ぼくたちは住み慣れた部屋を掃除し、孤児のぼくたちに充分過ぎるほど親身になってくれた先生がたに別れを告げ、竹よりは虫を思わせる車に乗り込み、白い、離れて眺めるとずいぶんこぢんまりした建物と、虫の気配のない野と魚の泳がない川、鳥の啼かない明るい森をあとにした。
 久々の遠出にはしゃいでいるうちに、みどりは消え、車はひび割れた赤い大地を走っていた。空はもも色がかった鼠色に曇り、月の輪は見えなかった。焼け焦げた、奇妙に鋭く切られた岩が窓の外を流れてゆく。植物といえば、たまに黄色っぽく乾いた草が地にへばりついているばかりだ。
 何人かの子が吐き気や頭痛を訴え、寝台のある別のバスに移された。そうだ、こうした乗り物はバスと呼ばれたのだった、とぼくはやっと思い出した。
 あかりは気分が悪いと泣く子の背中をさすって窓を開け、先生を呼び、ひとり風に当たっていた。荒れ地の風は湿った錆の匂いがした。ぼくも少し眩暈がしたが、 異国の歌を口ずさむあかりの横顔を見ていると楽になった。

 ぼくたちの新しい住まいは、かつて世界の王さまを気取っていたこの国の高台にあった。
 バスが緩やかな坂を上りきるころ、遠くになにか、濁ったものがうごめいているのにぼくは気づいた。海だった。火の玉となって降り注いだ月のかけらを沈めた海は、まだ青い色を取り戻してはいなかった。
 うす灰色の石でつくられた、墓石のような町だった。そうした町がこの星の、無事だった陸地に散らばっていた。
 町に入ると、あの施設と同じように素っ気ない、ふた回りほど小さな建物が道沿いに並んでいた。地は濃いグレイの石で舗装され、草といえば公園の、くすんだ緑の敷物にしか見えない芝生だけだった。
 うたう川はなかった。水は水道の蛇口から流れ出るか、ボトルに詰めて売らたり、配られたりするものだった。森はなかった。代わりにつくりものめいた樹が、通りの両脇に行儀よく列を作っていた。定期的に刈り込まれる様子から見て、本物の、生きている樹であるらしかった。一日に数度、どこに閉じ込められているのか、機械の鳥がぴいちくぱあちく時を告げた。
 野で遊ぶ時間はもう終わったのだと、その町はぜんたいで新入りに諭していた。
 ぼくたちは一緒に育った仲間たちと引き離され、ベッドと机と棚のついたこぎれいな個室に案内された。小さな劇場のような教室で学び、天窓つきの運動場で身体を鍛えた。クリーム色のトレイに盛られた食事を摂り、与えられたサプリメントを飲み、半年に一度、体重や身長、尿や血液、その他諸々の検査を受けた。
 教えられたことはすべて覚え、呑み込み、こなしたが、面白さを見出すことはなかった。ぼくの発言はしばしば大人たちに褒められたけれど、それを得意がることもなかった。運動は気分転換になったが、食事に美味しさを求める習慣はとうに失くしていた。ただひとつありがたいことに、家族を失った記憶にあかりとの思い出が重ねられたせいか、施設での治療のおかげか、以前のような発作は滅多に起きなくなっていた。
 自分はもう子どもではないのだ、とぼくは思った。もちろん、すぐに大人になれたわけではない。心から幸せなわけではなかったけれど、あの施設が懐かしかった。今となっては家族といた頃よりも懐かしかった。なによりもあかりのことが懐かしかった。
 だからぼくは、暇さえあれば水の流れを、笹の藪を、黒髪の少女を探し歩いた。自分と同年代の女の子たちが群れておしゃべりをしていると、彼女の声が聞こえないかといっしんに耳を傾けた。
 真っ黒い髪の女の子の後をつけたことさえあった。角でさっと振り向き、怯えたようにぼくを見つめるその女の子は、後ろ姿のほかは少しもあかりに似ていなかった。ぼくは軽く会釈をして彼女を追い越し、通りの尽きるところまで脇目もふらずに歩いて行った。
 そうして恥ずかしさを振り切って以来、ぼくは町をさまようのをやめた。代わりに塵ひとつない公園のベンチで手帖を開き、あかりの語ってくれた物語を思い出しては書き留めた。この町に来てから昔の名前を誰にも教えなかったのは、規則が厳しくなったたせいばかりではなかった。