鍵 3

  家の手伝いは季節ごとに増えたから、気がつけば寄り道をする暇もなくなっていた。
 学校に通うようになってから、ずっとジョノと一緒に下り、上った長く広い坂を、わたしはひとりとぼとぼ歩いた。飽きるほど行き来した坂なのに、話し、笑いあい、眼を見かわす相手がいないだけで、今まで気づかなかったものたちが魔法のように立ち現れた。
 足元に敷き詰められた古い煉瓦に刻まれた模様、家々の前に作られた手すり付きのテラス、指痕ひとつない窓から覗く異国の花瓶。白い壁がいただく屋根は、水色やさくら色に塗られている。並ぶ店が掲げる看板の文字はひとつおき、ふたつおきにしか読めなかったけれど、何を売る店かは形から見当がついた。
 その坂の中ほどに、奇妙な看板を掲げた風変わりな家があった。屋根はレモン色とさみどりのまだらで、テラスはちょっとしたパーティーができるほど大きかった。道に面した上り段の脇の柱に、あまり大きくない真鍮製の看板が、取ってつけたように下がっている。パン屋でも靴屋でも帽子屋でもない。真四角の枠の中にペンらしきものが斜めにくり抜かれた看板だった。
 そこは代筆屋、つまり、読み書きができない人の代わりに手紙を書く店だった。屋根つきの広々としたテラスが店の代わりで、その奥に控える古びた二階家が代筆屋の住まいだった。
 代筆屋は男性で、まだぎりぎり若者と呼んでいい歳に見えた。生まれてからずっと地下室で暮らしてきたのかと思うほど色が白く、痩せてひょろりと背が高かった。いつもにこにこしていたが、人によってはにやにやしていると感じるかもしれなかった。
 祖母の手を引いてその店を訪れたのが、彼と話をするようになったきっかけだった。
 遠い街に嫁いだ親友が死んだので、お悔やみの手紙を書きたいというのが祖母の頼みだった。祖母の親友も読み書きができないまま一生を終えたが、息子は整った字で、長い手紙を書くことができた。古い友人の不幸を知らせる手紙は雪のように白い封筒に収められ、青黒い封蝋が捺されていた。
 一生に三通目の、そしておそらく最後になる自分宛ての手紙が届くと、祖母は家の斜め隣に住む、字の読める老人を訪れた。彼は祖母と、そして祖母の親友とも親しかった。古い仲間の死にふたりは抱き合って少し泣いた。それから祖母は、孫娘の腕にすがってわざわざ坂の代筆屋を訪れた。友人は読むことはできても書くことは苦手だったし、代筆屋は町に一軒しかなかったからだ。
「報せてくれればこちらから伺ったのに」と代筆屋は驚き、籐でできた肘掛椅子を引きずってきた。気づいた近所の奥さんが、子どもたちと一緒に座布団やひざ掛けを届けてくれた。「年寄りには冷えるでしょうからね」
 どうにか椅子に落ち着いた祖母は、長いながい思い出話と別れの言葉をとうとうと語り聞かせた。祖母の声がよく通り、語りぶりがあまりに見事なものだから、いつの間にか近所の人びとが集まってきた。わたしの母よりやや年かさの、白髪混じりの髪をきゅっと結いあげた女性がふいにしくしくと泣き出した。
「あたしがまだ小さくて、この街がもっと賑やかだった時のことを思い出したんだよ」とその人エプロンの端で涙をぬぐった。
 わたしはひとり、こんなにも長い話をまとめられるものだろうかと気を揉んでいた。しかし手紙は、祖母がお茶を飲む間に仕上がってしまった。値段はびっくりするほど安かった。もっともわたしも祖母も、そもそも代筆屋の相場というものを知らなかったのだが。
 
 それからわたしは坂を通るたび、足を止めて代筆屋と話をするようになった。
 彼の名はアサンドといった。