鍵 5

 しかし、ジョノは嫌にはならなかった。勉強を辞めるつもりもないようだった。
 ジョノは幾度か汽車で、遠い街に出かけて行った。先生と彼のお母さんが付き添った。じゃがいもの皮を剥きながら、母はその支度がどれほど大変だったかわたしに話した。ジョノのお母さんの古い上着に刺繍をほどこし、先生から趣味がいいと言われたのをしきりに自慢していた。
「滅多にない遠出をするんだから、恥ずかしくない格好をしてもらわないとね」
 大きな街の学校で、ジョノは難しい試験を受けた。その成績は大変良かったともっぱらの噂だった。
 ジョノはこのままどこかへ行ってしまうのかもしれない。そして二度と戻って来ないのかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなかった。でも、どう話しかければいいのだろう。話しかけてなにを言えばいいのだろう。声を掛け合い、紙つぶてを投げ合い、祭りの日には庇を伝って行き来さえしたふたつの窓の間に今は、深い闇が刻まれていた。
 空の籠を下げて歩くわたしをアサンドがお茶に誘った。話の合間ににわか雨が前の坂を横切った。
「ジョノは謎に夢中なんだよ」
「アサンドも」ひとしきり泣いたあとわたしは訊いた。「謎に夢中だった時期があった?」
「ずっと前に」彼は少し口をつぐみ、煉瓦の隙間を伝い流れる雨水の音に耳を澄ませた。
「ぼくは鍵を見つけようとした。結局失敗したけどね」
 その鍵の存在に気づいた者は、みな探さずにはいられなくなるのだとアサンドは言った。

 ジョノが入る大学は、列車を乗り継ぎまるまる一日かかるところにあった。丘を切り開いてつくられた街全体が大学なんだそうよ、と母は言った。迷路のような建物の奥で白い髭の学者が日々研究に励み、その下でたくさんの弟子が学んでいるのだった。
 弟子はすべて住み込みと決まっていた。だから通う必要はなかった。そもそも遠すぎてこの町から通うことはできなかった。

 その夏の終わり、ジョノは列車で町を出た。
 友達や近所の人や、ジョノと特に親しくはないが、とにかく名誉なことらしいと喜ぶ人に混じってわたしも駅に見送りに行った。
 小さな駅舎は祭りか結婚式のような人だかりだった。誰もが着飾り、柱には造花が結ばれ、籠に盛られた野の花が甘い香りを漂わせていた。町長が星の形の砂糖菓子を手当たり次第に配っていた。何も知らない他の乗客は、窓から身を乗り出したり、慌てて化粧を直したり、眼鏡をかけなおしてこれはいったいなにごとかと駅員に訊ねたりした。
 アサンドも駅に来ていた。彼が家を離れるのは滅多にないことだった。
 ジョノは栗茶色の上着を着て、ともすれば風でくしゃくしゃになってしまう黒い巻き毛を美しく整えていた。もう立派な発見でもしたかのように、誇らしげに挨拶している。どもりはなかった。いつのまに治ったのだろう。
 壮行会が終わるとジョノは列車に乗り込んだ。
 アサンドが大きな手で、ゆっくりと拍手をした。わたしは思わず顔を上げたが、紙吹雪に紛れて立つ彼の表情はよく見えなかった。

 こうしてジョノは町から、つまりわたしの世界から消えた。夏至と当時の祭りの頃には帰省したが、着るものも言葉遣いも笑い方もすっかり別人になっていた。わたしを見ると慇懃に挨拶をして通り過ぎ、数晩泊まるといそいそと大学に戻っていった。
 ジョノは思い出の中にだけいる人で、年に二度見る今の彼は全くの他人のような気がした。幾度かアサンドに手伝ってもらい手紙を書いたが返事はなかった。それでわたしもジョノを忘れてゆき、いつかアサンドの家の、食器棚の半分を本が埋めている台所でお茶の支度をするようになった。