父の部屋 (後)
灰色の仔猫がやってきたのは、夏至と冬至を学校で祝うようになってから四回目の春だった。庭の、ちょうど父の部屋の前の茂みでひいひい啼いていたのをイーヴが見つけたのだ。
使い古しのブラシを思わせる塊に母は細い眉をひそめた。
「きっと親とはぐれたのよ」そう言って触ってもいないのにハンカチで手をぬぐった。「元の場所に戻しておきなさい、じき母猫が迎えに来るわ」
でも、そんなふうにはならなかった。猫はいつまでも啼き叫んだ。人間の匂いをつけてしまったせで、親に捨てられたのかもしれない。元々みなしごで、数年前愛妻家の夫に恵まれたものの、なかなか子どものできないイーヴはそう言って自分を責めた。猫の声はときに赤ん坊の泣き声めいて、わたしたちをぎょっとさせた。イーヴが仕事の合間に庭をあちこち探したが、声ばかりで仔猫は姿を現さなかった。
満月が、若葉をまといまどろむ柳や、青白い花ばかり咲き誇る花壇や、さざ波ひとつたてずに息をひそめる池を銀色に染める夜だった。
またあの猫の声が上がった。三回枕をひっくり返した後、わたしはベッドから出てガウンを羽織った。長い暗い廊下を歩くときはさすがに足が少し震えた。リビングの扉を開くと、誰かが窓辺に立っていた。
悲鳴をこらえて足を止めた。母だった。髪を下ろし、レモン色の花をちりばめた長衣を羽織った母は二十近く若く見えた。俯く姿は父と母が出会ったばかりで、互いの気持ちを測りかねていた娘時代を思わせた。
母はわたしに気付くと、驚きもせず庭を指し、それから唇の前に指を立てた。わたしは頷いた。猫は今や赤ん坊どころか、波にさらわれ助けを求める女のように喚いていた。
恋人たちが散策するなら明かりなどいらないような満月だったけれど、家主を失った女ふたりが茂みや木陰を探すには懐中電灯が必要だった。母は赤い大きな懐中電灯を右手に掲げ、左手ををわたしに差し出した。母と手をつなぐなんて何年ぶりだろう。指の細さと滑らかさと、何より冷たさにびっくりした。
ここまで大声で休みなく啼かれれば、隠れ家を見つけ出すのはたやすかった。春にはシャンパン色の木漏れ陽を散らし、夏には青黒い木陰を作り、秋には黄金の葉を振らせる木の下だ。母がわたしにしっかり掴まり、光を投げると、ひとそろいのガラス玉が青い光の筋を返した。いた、とわたしは呟いた。
猫はゆっくりと茂みから姿を現し、わたしたちににじり寄ると、小枝のような前脚で母のつま先にしがみついた。こうなれば飼わないわけにはいかなかった。母おそるおそる猫を抱き上げ、わたしが懐中電灯を持ち、家に戻って水で薄めたミルクを与えた。
「庭から出なくてよかったわ」と母は言った。「この子、野犬に襲われていたかもしれない」
わたしはぞっとして細く開いたドアを閉じ、リビングから暗い廊下を締め出した。
猫は雄だった。母はギイと名前を付けた。父の下の名から取った名だ。葬儀以来、母は一度も父の話をしたことがなかったから意外だった。
母が泥や埃や草の汁を洗い落とし、わたしが学校で教えてもらった獣医で虫下しの薬を処方してもらい、専用のミルクと餌で肉がついてくると、猫はなかなかの美形だった。
「この子、きっと外国の高い猫の血が混じってますよ」イーヴはブラシで毛を解きながら言った。「前世は砂漠の国の王さまだったに違いありませんよ、それとも北の国かしら。こんなに毛がふさふさしているもの」
ギイは母にもわたしにも、そしてイーヴにもすぐに懐き、家にも慣れた。前世でどんな御殿に住み、どんな美しい王国を収めていたかは知らないが、現世ではこの屋敷だけを世界として生きてゆくと決めたらしい。うっかり窓を開け放しても、桟の上で丸くなるだけで外に出ようとはしなかった。
二階建ての屋敷は、猫一匹が治める国としては充分の広さだった。椅子の下の暗がりや、子どもなら滑り台代わりにできそうな階段の手すり、猫から見れば断崖に見える棚など、征服先にも事欠かない。母は厨房と食堂と浴室には猫を入れないと決めていたが、他の場所は自由に行き来させていた。以前はわずかな埃にも神経をとがらせていた母だったのに、抜け毛の塊を見つけると、これで糸を紡げないかしらなどと言い出す始末だった。
もうひとつ、ギイが入ってはいけない処があった。父の部屋だ。もっともあの部屋は、鍵こそそのままだったけれど長く締め切られており、わたしも母も、この屋敷が建った時から書斎などなかったように振る舞っていた。白樺がまばらに植わっている公園のような墓地でも、父は遠い、会ったこともないご先祖さまのような扱いだった。
それでも時折、わたしは父の部屋で読み聞かせてもらったあの本を、金のインクで書かれた奇妙な文字を思い出した。父はあの字を読めたのだ。どこの国の言葉だろう。父はどこで覚えたのだろう。しかし、訊ける相手は母しかいなかったし、ようやく微笑を見せるようになった母の前で、父の話を持ち出す気にはなれなかった。
†††
ギイが家にやってきて三年目の冬に伯母が、父の十三上の姉が死んだ。わたしと母は、あの石の建物にふたたび向かった。天の家と呼ばれる施設は、記憶の通り白い橋の架かる河の傍にあった。
葬儀の日は曇りだった。そのせいか天窓は閉じられていた。
「なにもあんな日にねえ」喪服姿の女性たちが囁きかわしていた。みな指や頸を濃い紫の石で飾っている。豊かな白髪をすみれ色に染めているのは大おばだ。父の一族は女性の多さに、わたしはその時気がついた。
久しぶりに会う従姉が熱い珈琲を渡し、老人たちの迷信深さに肩をすくめた。なんでも伯母の死んだ日は、五百年ほど昔、とある先祖の女性が死んだのと同じ日だったらしい。
「それもね、ただのご先祖じゃないのよ」そう潜める声に、幼い頃に感じた禍々しさはみられなかった。「悪名高い魔女だったの。裁判に掛けられたあと、お情けで吊るし首になったんですって」
「お情けって?」
「普通は火あぶりなのよ、でも改心したから吊るし首」
今度肩をすくめるのはわたしのほうだった。
しかし、たしかに伯母にはどこか魔女めいたところがあった。棺いっぱいに詰め込まれた花は、むせかえるような甘い香りを放っていた。生まれたままの色だと噂されていた黒い髪に、白い百合が映えていた。
奇妙な形に捩り合わされた手の薬指に指輪が嵌っていた。伯母は独身だった筈だ。指輪を飾る黒水晶のカットは猫の顔を思わせた。
その日イーヴは休みだったから、わたしと母は葬儀の帰りにグローサリーで惣菜を買い込んだ。家に戻り、堅苦しい喪服から部屋に着替えて一息ついたところで母が言った。
「ギイは?」呼ぶと力なく啼く声が聞こえる。
わたしたちは顔を見合わせ、部屋部屋を行き来し、ソファの下や花瓶の奥や、読みさしの本の山の裏を覗いて回った。
最後にたどり着いたのは父の書斎だった。ためらうことなくドアを押した。
カーテンは開け放たれ、秋の初めの明るい光が部屋いっぱいに差していた。淡い金の陽がデスクの上の埃を撫で、棚に並ぶ本の間に黒く細い影を刻み、硝子の海豚と少年の像の中に星型の像を結んだ。
カーペットの中央にギイが横たわっていた。丸く切られた臙脂の敷物が血だまりに見え、わたしは一瞬息をのんだ。大慌てで走り寄り、瀕死の恋人にするように肩を抱いた。
ピーといういびきの音がした。ギイは寝ているだけだった。わたしと母は顔を見合わせ、笑い転げた。
それからわたしたちは、なにがめでたいのか自分たちでもわからないまま、お祝いめいた食事を摂った。パンとスープを温め、サラダと肉をボウルに移し、母はワインの瓶を、わたしは猫用チキンの缶を開けた。
その週末はイーヴと三人で、父の部屋の大掃除をした。父の残したものはクリップ一本捨てはしなかったが、カーテンを洗い、肘掛椅子のクッションを叩き、書棚の硝子戸をそっと磨いた。
父のあの本は、記憶の通り棚の隅に収まっていた。わたしは本を引き出し、金文字の文を手帖に丁寧に書き写した。
どこの言葉か調べてみよう。自分でわからなければ学校の先生か、冬至休みに帰ってくる筈の叔母さんに訊いてみよう。そしてもし叶うなら、進学先はこの言葉を学べるところにしよう。
母は結婚前に取った資格で仕事と始めた。イーヴのお腹には待望の赤ちゃんができた。わたしのブラウスは丈が短くなったが小銭入れはまだ使っている。お守りはいつぶつけたのか、裏に小さなひびが入ってしまったけれど、叔母からの手紙によれば効き目に問題はないらしい。
ギイは相変わらず王さま気取りで家の中を行き来している。父の部屋の、あの絨毯の上の陽だまりがお気に入りの場所だ。
†††
昔、父が生きていたころ、葡萄酒色の本の中に特に好きな挿絵があった。
例の不思議な言葉の連なりでつくられた金の枠の中で、魔女と使い魔の猫が青い満月に祈りを捧げている。今思えば魔女の横顔は伯母にそっくりで、猫の後ろ姿はギイに似ていなくもなかった。遠い丘の向こうでは狼が集い、月の裏には別の世界への扉が隠されていた。
父の語り聞かせてくれた話では、猫は残酷な主人を憎んでいた。使い魔の呪いを解く旅に出た猫を魔女は追い、たくみに騙し、罠を仕掛け、最後には水の竜を呼び出して捕らえようとするが、猫は機転と素早さと古い魔法の力で振り切り、ついに月のうしろの秘密の扉を開くのだ。
しかし、ギイを膝に幾度本を開いても、わたしはその絵も物語も見つけることはできなかった。
FIN
2024/07/24~2024/08/06
Kohana S Iwana