永遠の人(中)
なのに父は死んでしまった。ある朝、なかなか起きてこないので寝室を覗くと、ベッドの中で父は冷たくなっていた。苦しんだ様子はなかった。死に顔は穏やかで、口元には薄く微笑みすら浮かべていた。高い頬骨に朝の陽が差していた。
「なにか困ったことがあれば開けなさい」
そう言われていた引き出しがあった。リビングの棚の一番下だ。鍵が掛かっているわけでもないのに、週に一度は埃を払い、その上の棚から毎日のように小瓶を取り出したり戻したりしてきたのに、開けたことは一度もなかった。
初めて手を掛け、手前に引いた。深い引き出しはなめらかに滑った。木と塗料の匂いが鼻を突いた。
ほの暗い底に箱がひとつ入っていた。白と黒の石と虹色の貝殻で作られた、重い真四角の箱だ。鍵はなかった。開けると中には紙幣で膨らんだ財布と金の粒を詰めた袋、それから水色の封筒と二つ折りの白いカードがあった。カードには父の字でこう書かれていた。
“この封筒をポストに投函しなさい、切手はいらないからね”
わたしは大急ぎでひとり分の食事を済ませ、歯を磨き、顔を洗って髪を梳かした。長くタンスに吊るしたきりになっていた濃い緑のワンピースを着て、ずっと昔に母が編んだというボレロを重ね、紺の紐靴を履いた。ともかくすることができたのはありがたかった。
朝の空気はひんやりしてた。わたしと父の朝は早かったから、まだ陽はうす墨色の山並みの上に顔を出したばかりだった。
財布と家の鍵と手紙を入れた丸いバッグを肩から下げて、ずんずん坂を下りて行った。家はみるみる遠ざかり、右手に広がる森はどこまでもついてきた。わたしは幾度も立ち止まり、振り向くごとに小さくなる、濃い青色の屋根と白い壁を見やった。あまり長く父を一人にしてはいけないと思った。
やがて森は途切れた。白く踏み固められた坂はレンガ敷きの通りに続いていた。いつか父と来たことのある通りだった。思い出の中よりすり減った舗道に沿って歩いてゆくと、黒いフェンスに囲まれた公園に出た。以前来た時と花壇の位置も形も同じだったけれど、花々はまだ露に濡れて閉じていた。以前は幹の下に丸い木陰を落としていた樹が、小径の向かいのベンチの上まで緑の梢を伸ばしていた。
牛乳配達の自転車がベルを鳴らしながら道の向こうを通り過ぎた。タイヤの形も荷台の大きさも前と違っていると思った。
真鍮のベンチに身体の大きな男の人が座っていた。紙袋から取り出したサンドウィッチを食べている。四角い顎がゆっくりと動くたびに魚の酢漬けの匂いがした。
わたしは思わずつま先立ちして男性を眺めた。だぶだぶの上着に包まれた太い腕、深く引き下ろされ、顔を半ば隠している潰れかけの茶色い帽子、膝の擦り切れかけたズボン。そして脇に置かれたぴかぴかの魔法瓶。あの人はこの世界の“どこ”にいるのだろう。大金持ちには見えなかったけれど、暮らしに困っているわけでもなさそうだ。
きゃんきゃんという甲高い声がした。振り向くと金褐色の小さな犬が、丸い眼を力の限りに見開いてわたしを睨みつけている。縮れ毛に埋もれた首輪から虹色のリードが伸び、その端を女の子が握っていた。きっとこの子は学校に通っているのだと思った。
「いやだ、なにに吠えてるの」
女の子は戸惑ったようにリードを引いたが、犬は胴の片側を地面につけんばかりに傾け吠え続けた。
「もう」彼女がリードを幾度か揺すると、犬はくうんと啼いてわたしから離れた。
耳の下にきれいな黒いカールを作り、目の覚めるようなピンクのパーカーと真っ青なデニムを着た女の子は、幾度もこちらを振り向きながら犬を追い立てて行った。
どこかからパンやハムやベーコンや、卵や珈琲の匂いがし始めた。鐘の音が街の上に薄く残る朝靄を払った。この音は父と来た時と変わらなかった。
わたしは我に返ってポストを探した。たしかこのあたりにあったはずだ。昔、父に連れられて手紙を出しに来たことがある。
ほどなくポストは見つかった。以前と同じ、公園の東門を出た処だ。前は丸かったのに今は四角かった。でも同じ黄色に塗られていて、父の教えてくれた郵便局の丸いマークもちゃんと正面についていた。
わたしはほっとしてバッグから封筒を取り出し、父の手で書かれた見知らぬ住所を読み返してから投函した。以前ここに来たときは父に抱き上げてもらわなければ届かなかった口に、今はたやすく手紙を入れることができた。
これでおつかいは終わりだ。家で父が待っている。もしかしたら父が死んでしまったというのはわたしの思い違いかもしれない。今頃父は起きだして、消えた封筒からすべてを察して呆れているのかもしれない。
ともかく長く家を空ける事はできなかった。生きていても死んでいても、起きていても眠っていても、父を一人にはしたくなかった。それに、すぐに戻らなければ二度と家へ帰れなくなってしまう気がした。
わたしは踵を返し、自分の辿ってきたレンガの道を引き返した。
晴れたはずの靄がふたたび空を覆い、地に濃くわだかまって足元を隠した。レンガは竈から出されたばかりのように硬くなったり、ぼろぼろに崩れたり、かと思えば継ぎ目すらない、石とも木とも綿ともつかないものに変わったりした。
わたしは何度も立ち止まった。いつのまにかあたりは霧に包まれていた。
ミルク色の紗の幕の向こうから話し声が聞こえた。たしかに人の声で言葉の意味も分かるのに、皆わたしの知らない人と、わたしの知らない世界のことを話をしていた。
くすくすと嘲笑う声が聞こえたが、わたしを笑っているのではなかった。激しく怒る声がした。振り上げられた拳の灰色の影すら見えたけれど、わたしをぶとうとしているのではなかった。
泣きたくなったのは、嘲笑や殴るしぐさに傷ついたからではなかった。でも、泣いてもなにもならなかった。どんなに泣いても向こうの人には見えも聞こえもしないのだ。
とにかく自分で歩かなくてはならなかった。もう父はいないのだ。今にもここにも、世界のどこにもいないのだ。父は死んでしまったのだから。
唇を噛み、見えない足元だけを睨んでひたすら歩き続けると、やがて道は上り坂になった。顔を上げると遠くに青い屋根が見えた。
自然と足が速まった。霧が切れ、見慣れた森が現れた。
わたしは家の近くの野に伸びる一本道に立っていた。春の終わりの空は磨き上げられたような明るい青色をしていた。大きく息をつき、ブーツの踵で地面を蹴った。いつか父に教わった、ふつうの人びとの間で信じられている魔よけのおまじないだった。
家に着いても父はベッドに横たわったままだった。
パンを切ってバターを塗り、紅茶を淹れて一人で食べた。ほんとうは父の傍で食べたかったけれど、父はテーブル以外でものを食べるのを嫌っていたから、代わりに寝室のドアを開けて時々父に話しかけた。
いくら喋っても返事がないのでラジオをつけた。いつもと違う時間に、自分でスイッチを入れてラジオを聴くのは初めてだった。いつもと同じ銀色の箱から、いつもと違う声が、いつもと違う話が、いつもと違う音楽が流れ、昨日とは少しも変わらないように見える居間を満たした。いやに舌足らずな女性のおしゃべりや、音程もリズムもめまぐるしく変わる音楽に聞き入りながら、こんなものを流して父は気を悪くしないかと考えた。父は古風できちんとした、落ち着いたものが好きだったから、怒りのあまり起きてだしてラジオを止めてしまうかもしれない。でも、そんなことは起きなかった。
20204/0607修正