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Showing posts from June, 2024

橋を渡る

  ぼくは橋の上に立ち、水面をじっと見つめていた。水面ははるか下、ぼくの背丈の十倍くらいの処にあった。落ちればきっと命がないくらいの高さだ。仮にぼくが泳ぎの名人だったとしてもだ。  でも、ぼくは自分が泳げるかどうか分からなかった。そもそも自分が誰で、なぜこんな処にいるのか分からなかった。こんな処で、なぜ欄干に片膝を乗せて身を乗り出しているのか分からなかった。長い夢からたった今覚めて、我に返ったような気持ちだった。  我に返った僕はびっくりして膝を下ろし、その反動で後ろにひっくり返った。けっこう威勢よくしりもちをついた。  じりじり痛む尻と尾てい骨撫でながら、ぼくはあたりを見回した。  白っぽい木でできた、長い橋だ。たった今架けられたように、しみも汚れも傷もなかった。  ぼくはまっすぐに立ち、右を見て、左を見て、それからもう一回右を見た。子供のころ、横断歩道を渡るときにそうしなさいと言われたのを思い出した。それから、もう一度左を見なくていいのかなと考えていたのを思い出した。でも、左を見ればまた右を見たくなり、そうすると一生左右を順に確認したくなってしまうはずだから、ぼくは左を見なかった。  ともかくその橋の右も左も、全く同じように見えた。水の上をどこまでも、大袈裟に言えば地平線までずっと橋が続いているのだった。こんな長い、高い橋をどんなふうに架けているのか、建築に疎いぼくにはさっぱり分からなかった。そして、どちらに行けばいいのかも分からなかった。ともかく分からないことだらけなのだ。  欄干からそっと下を覗くと、眼のくらむような藍色の水がきらめいていた。水はたゆたい、泡立つ渦を巻いてはほどき、ゆるゆるとうねっていた。あれに呑まれたらどんな泳ぎの名人でも命はないだろう。さっき我に返ってよかったと思った。  ともかく命拾いをしたわけだが、これから自分はどちらに行けばいいのだろう。いや、その前に、ぼくはいったい誰なのだろう。  ぼくは、というからには自分はきっと男なのだろう。足を見ると薄汚れた運動靴を履いている。服は明るいグレイの地に真っ赤なラインの入った体操着だ。腕や脚に筋肉はついていたが、大人の男性のように立派なものではない。念のために言うと胸のふくらみもなかった。まあまあ鍛えた男子中学生あたりといったところだ。  服装から見て、部活動の練習を終えて帰る途中だった...

永遠の人(後)

 手紙を出した翌日の午後、知らない人たちがわたしの家を訪れた。まるまる太った女性と痩せて背の高い女性、白髪なのに顔に全く皺のない男の人と、父に少し似ている人、それから今、わたしの前に座っている男性だ。  彼らはわたしの親戚だとか、父の知り合いだとか、同じ一族のものだとか言った。名前は皆、びっくりするくらい長かった。わたしから話を聞くと、ねぎらいの言葉をかけたり抱きしめたり、ハンカチを眼に当てて泣いてみせたりした。それから白い布と箱を使って父の寝室に祭壇を作り、葬儀らしきものを済ませると、菓子の包みを置いて慌ただしく出て行った。父の身体はベッドの上に残された。  わたしと、そして父の友人だという男性が家に残った。年齢はよくわからない。父と同じくらいにも、あの山の僧くらいにも、学校というものを卒業して間もないくらいの歳にも見えた。 「きのこ」わたしは問いに答えた。 「惜しい」とその人は言った。 「じゃあ樹」 「違うな」  わたしは考え、思い切って言った。 「石」 「あたり」その人は手を打った。乾いた音が居間に響いた。 「石は生き物じゃないわ」わたしは言い返した。「食べ物よ、どちらかというと」 「食べ物でもないよ」彼は驚いた様子だった。「普通の人は石なんて食べない」それから訊ねた。「きみは食べたのか」  わたしは頷き、彼に棚を見せた。父の愛用の棚には色とりどりの石が粉状に砕かれ、瓶に詰められ並んでいた。ラベルには父の字で、春、夏、秋、冬、雨、晴れ、雪、霙、何度以上、何度以下などと書かれている。物心ついたころからラベルの指示に従い、わたしと父はこの粉を毎日ひと匙飲んでいた。 「パンも肉もおいしいけれど、あれは舌を満足させるためだけのものだよ」と父はよく言っていた。「人間はほんとうはこうした石だけで充分生きてゆけるのだ」  わたしはパンも肉もお菓子もおいしいと思うけれど、石にはかなわないと思う、と答えた。あけぼのの色の石はほのかに甘く、夜の色の石は苦みの混じった塩味で、青空色の石はよく熟れた果物に薄荷を混ぜたようなの味がした。  お前は生粋の石の子だからな、と父は笑った。もっともわたしの身体は肉と血と骨でできているから、石から生まれたわけではないと思う。そう言うと彼は頷いた。 「もちろんきみは人間だ。ぼくはきみのお母さんのことを幾度も聞いているからね」  それからその人はわた...

永遠の人(中)

 なのに父は死んでしまった。ある朝、なかなか起きてこないので寝室を覗くと、ベッドの中で父は冷たくなっていた。苦しんだ様子はなかった。死に顔は穏やかで、口元には薄く微笑みすら浮かべていた。高い頬骨に朝の陽が差していた。 「なにか困ったことがあれば開けなさい」  そう言われていた引き出しがあった。リビングの棚の一番下だ。鍵が掛かっているわけでもないのに、週に一度は埃を払い、その上の棚から毎日のように小瓶を取り出したり戻したりしてきたのに、開けたことは一度もなかった。  初めて手を掛け、手前に引いた。深い引き出しはなめらかに滑った。木と塗料の匂いが鼻を突いた。  ほの暗い底に箱がひとつ入っていた。白と黒の石と虹色の貝殻で作られた、重い真四角の箱だ。鍵はなかった。開けると中には紙幣で膨らんだ財布と金の粒を詰めた袋、それから水色の封筒と二つ折りの白いカードがあった。カードには父の字でこう書かれていた。 “この封筒をポストに投函しなさい、切手はいらないからね”  わたしは大急ぎでひとり分の食事を済ませ、歯を磨き、顔を洗って髪を梳かした。長くタンスに吊るしたきりになっていた濃い緑のワンピースを着て、ずっと昔に母が編んだというボレロを重ね、紺の紐靴を履いた。ともかくすることができたのはありがたかった。  朝の空気はひんやりしてた。わたしと父の朝は早かったから、まだ陽はうす墨色の山並みの上に顔を出したばかりだった。  財布と家の鍵と手紙を入れた丸いバッグを肩から下げて、ずんずん坂を下りて行った。家はみるみる遠ざかり、右手に広がる森はどこまでもついてきた。わたしは幾度も立ち止まり、振り向くごとに小さくなる、濃い青色の屋根と白い壁を見やった。あまり長く父を一人にしてはいけないと思った。  やがて森は途切れた。白く踏み固められた坂はレンガ敷きの通りに続いていた。いつか父と来たことのある通りだった。思い出の中よりすり減った舗道に沿って歩いてゆくと、黒いフェンスに囲まれた公園に出た。以前来た時と花壇の位置も形も同じだったけれど、花々はまだ露に濡れて閉じていた。以前は幹の下に丸い木陰を落としていた樹が、小径の向かいのベンチの上まで緑の梢を伸ばしていた。  牛乳配達の自転車がベルを鳴らしながら道の向こうを通り過ぎた。タイヤの形も荷台の大きさも前と違っていると思った。  真鍮のベンチに身体の大きな男...

永遠の人(前)

 この星で最も長寿なものはなんだと思う? とその人は言った。  なんだろう。わたしは首を傾げた。ずっと前、身体の大きな生き物は長生きだと読んだことがある。生物の一生ぶんの脈の数は決まっていて、身体の大きな生き物ほど心臓がゆっくり打つから、それで長く生きられるのだという話だった。  呼吸についても似た話を聞いたことがあった。生物が一生にする呼吸の数は決まっているから、息が静かでゆっくりなほど寿命が長くなるのだ。  どこかの山の頂に古い僧院が建っていた。雲に紛れて散らばる棟で修行を積む僧たちは、こうした秘密を知っていた。彼らは呼吸を操るすべを身に着けていた。  岩肌にしがみつく建物を繋ぐ細いつり橋、軒に下がる鉄製の風鈴、そして、頭も髭もきれいにそり上げ、臙脂色や黄土色の衣の前からあばらの覗く男たちの姿を、以前ヴィデオで見たことがあった。それでも僧たちの寿命はせいぜい百数十年くらいだ。  父は、遠い国の人々の暮らしぶりを映したヴィデオが好きだった。  わたしも一緒に四角い画面の前に座り、ふじ色の峰が間近に迫る山の牧場へ牛を追ってゆく人びとや、ビリジアンの海に浮かぶ筏の上に建つ家々や、あかね色の岩山に開けられた洞窟の様子に夢中になった。  牛の群れに紛れて歩く子どもたちの、ふしぎに伸びて豊かに響く歌声や、海とともに生きる人たちの暮らす、低い平屋の窓辺に下がる五色の魔除けや、ごつごつとした岩の中にふいに取り付けられた黒いドアとその奥に広がる角のない部屋、天井や壁に描かれた花や鳥や女神の絵、そして、ドアと同じ木でつくられた黒光りする家具をはっきりと覚えている。  ヴィデオの中には輝く塔に暮らす神々のような人たちの様子を映したものもあれば、眼をそむけたくなるほど辛く、恐ろしい光景もあった。  宝石の粉で身を清め、地図のかなたに湧く泉の水を飲み、瞬きするごとに虹の色を順に映す衣をまとう華奢な人びと。枝のようにやせ細り、食べ物を求めて奇妙に明るい色の椀を手にさまよう人びと。わたしには計り知れない覚悟を決め、勇ましくうたいながら戦いに赴く男たちもいれば、すべてをあきらめ崩れた壁の傍にうずくまる母子もいた。かつては美しい家だった瓦礫の山が、燃える空を背に真っ黒い影を落とし、雷鳴を百も合わせたような爆音が絶えず轟いていた。  そうしたヴィデオのナレーターは大抵は男性だった。若すぎも老いすぎ...