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Showing posts from September, 2024

東風

 その人は奇妙なかばんを持っていた。それが不思議でたまらなくなって、あとをつけることにした。  もちろんそんなことは非常識だと分かっていた。でも、よく晴れた気持ちのよい春の午後だったし、なのに自分は仕事を馘になったばかりで気が滅入っていっていたし、なにより時間を持て余していた。当面の生活費はどうにかなるけれど、次の仕事が見つかるかどうか分からなかった。そんな現実からいっときでも逃れたかったのだと思う。  その人は灰色のジャケットを着て、うす茶のズボンを履いていた。靴は傷ひとつなく磨き上げられていた。後ろ姿からは男性だということしか分からない。チャコールグレイのソフト帽をかぶっていたから、巻き毛なのか、黒髪なのか赤毛なのか、禿げているのかも分からなかった。  そんな、地味で目立たない男性が大きな緑のかばんを持っているのが眼を惹いた。子どものころに好きだった童話に出てきた不思議なナニーの、絨毯でできたかばんを思い出した。そのかばんが実際にはどんなものなのかは想像するしかなかったのだが、彼のかばんはその、童話のかばんを思わせた。全体に緑で、その緑も薄いものや濃いものや、明るいものや暗いものが入り交じって‥‥なんというか、もしゃもしゃしていた。毛の堅い犬を抱えて歩いているようにさえ見えた。ともかく普通の生地で作られたかばんではなかった。  おまけに男性のかばんは大きかった。わたしは今「抱えている」という言葉を使ったけれど、まさにそんな感じだった。おまけに丸く、はちきれんばかりに膨らんでいた。  その人を見かけたのは、平日の昼過ぎの大通りだった。わたしは役所で必要な手続きを済ませ、道を渡った先にある職業紹介所に書類を出して、そういえばお昼を食べていないななどと考えながら、ラムネ色のくすみだらけのドアを押し開け、自分のアパートとは反対の方向に歩き出したところだった。このまま部屋に帰りたくなかった。  その人は、猫背なのだろうか、少し体を前屈みにして、とぼとぼと歩いていた。人通りは少なかった。ジャケットの肩に、帽子に、鞄の上に、春の陽が散っていた。  街路樹の枝の細い影が、丸い背中を撫でるように過ぎて行った。わたしはたまたま行き先が同じなのだというふりをして、彼のあとををつけ始めた。  彼は何処に寄ることもなく、急ぎもせずに歩いていた。昔ながらの床屋と、眼鏡と宝石と時計を扱ってい...

系図 

 教会は、水のヴェールと真珠の泡粒に飾られていた。  黄昏めいた、暗い海の底だった。海底に建つ教会に、人間が通うことはできなかった。  沈む教会の近くには魚たちが暮らしていた。  うす墨色や黒紫や、斑点を散らした土色の魚たちは眠たげに泳ぎ、鰭の動きと吐き出す泡で会話をした。彼らは何年も何十年も、ある者によれば何百年も生きているのだった。  長く生きた魚の鱗は鎧のように硬くなり、かすんだ眼の上には角が、尻尾には鉤爪が生えた。太い棘が背骨に沿って一列、二列、三列に並んだ。  ごつごつといかめしい身体は、老いのために記憶さえ失った魚たちの唯一の自慢だった。老魚は角を振り立て、鉤を見せびらかし、棘に飾られた背骨をねじり、水の底を這うように泳いだ。褐色の砂を巻き上げ、こげ茶の泥で腹を洗い、お気に入りのうす黒い穴ぐらによろよろと潜り込むのだった。  彼らは海の深みに沈む奇妙なもののことは知っていたが、船の一種だろうと考えていた。  魚たちは教会を知らなかった。もし知っていたとしても、とうの昔に忘れていた。  彼らの仲間に子どもの生まれることはなかった。唯一の例外がボウとエアだった。  二匹の親は旅の魚だった。旅人の細い背にはしなやかな鰭が生えていた。父の身体は赤紫で、母の身体は碧がかったコバルト色。うなじから尾まで金色の斑点が散り、脇には細い筆でひと刷きしたような美しい筋があった。長い旅をして来たのだと二匹は言った。 「どこからかね」老いた魚たちは旅の話を訊きたがったが、彼らは口ごもった。 「とても遠い処‥‥わたしたちのこの色の見える‥‥」 「まだ見えるのかね」  長い髭が自慢の魚が横から太い首を伸ばした。「もう見えるというべきではないかな」  しかし、どちらの老魚も、なぜまだなのか、なぜもうなのかまで説明することはできなかった。 「夜明けの時と夕暮れ時に‥‥」 「なぜそこを離れたのかね」  二匹は瞼のない眼で目くばせを交わし、青いほうが答えた。 「あまりにも美しすぎて、罪深い身には耐えがたかったからです」  それきりふたりはなにを訊かれても答えようとはしなかった。  年寄りたちは二匹の魚を受け入れた。旅の夫婦は数日あたりを探索した後、もの寂しい岩場を自分たちの住処に決めた。伏せたコップの群れを思わせる岩場の傍には深みがあり、その闇の底に、あの教会が建っていた。  水も空気も澄...

午睡のあと

 彼は王子だ。王子は囚われの身だった。ある日魔女にさらわれ、森の奥のねじれた城の、墨色の塔に幽閉されたのだ。  さらわれた原因はおそらく彼の美貌だった。王子は美しかった。百年、いや、千年に一度の奇跡の王子と呼ばれていた。彼をひと目見るために、海を、幾筋もの大河を、砂漠を、雪を頂く峰を超えて、肌の、髪の、言葉の、崇める神の違う人々が毎日のようにやってきた。  王子は非の打ちどころのない微笑みを浮かべ、甘い声で礼を言い、五色の宝石をちりばめた剣や、糖の吹いた干し果物や、わざわざ世話をしながら鉢で運んだ異国の花や、ビーズで編んだ虹色のベルトを受け取った。  ベルトは王子の腰に巻かれ、花は寝室の窓辺に飾られ、干し果実はデザートとなり、剣はベルトに下げられた。きらびやかなばかりで使い物にならない剣だったが、彼の国はもう三百年も平和が続いており、この先もしばらくは戦争など起きそうになかった。こうした彼の行動は、さらなる注目と賞賛の的となった。  そんな彼がさらわれたのは、うららかな春の日の午後だった。彼は自室の前の中庭の、貝殻で飾られたあずまやで本を読んでいた。何十年後かは分からぬが、将来は王になる身であったから、そのための勉強には余念がなかった。  しかし、真面目な王子もうっとりと頬を撫でる金の日差しにはかなわなかった。いつしか本は膝に落ち、彼はうつむいて舟を漕ぎ始めた。  ことは一瞬だった。灰色のつむじ風が降りてきて、王子を本もろとも掬いあげ、そのまま彼方に運び去った。後に残ったのは飲みかけの茶と手つかずの菓子ばかりだった。  目を覚ますと、見知らぬ部屋の中だった。自分の城の自室ほど広くも美しくもないが、掃除は行き届いていた。少なくとも埃は見当たらず、嫌な臭いもしなかった。空気は気持ちよく乾いていた。  ここはどこだろう。王子はベッドから抜け出し、部屋にひとつしかない四角い窓に駆け寄った。そして驚きに声を上げた。自分の今いる部屋が、地面より空に近いところにあると分かったからである。窓の外には彼方まで黒い森が広がっていた。  振り返り、反対側にある入り口へと向かった。一見なんの変哲もない木の扉には錠がしっかり下ろされていた。王子は外に出ようと悪戦苦闘したが、扉はむなしくガチャガチャと鳴るばかりだった。  しばらくそうしていると突然扉が外側に開き、灰色のマントをまとった影が現れ...

走馬灯

 列車の中でペンを落とした。  長い旅の途中だった。戻るつもりのない旅だ。  わたしは死ぬつもりだった。でも、いったいどこで、どう死ねばいいのかわからなかった。毒を手に入れるのは難しそうだったし、一般に知られている方法はどれも痛く苦しく、何よりあまりにむごかった。  雪山で眠って死ぬのはたいへん気持ちがいいものだと、昔、本で読んだことがあった。眠るように死んだ身体は何年もの間、生前と全く変わらない状態で保存されるのだそうだ。  この話を知った時、わたしは十歳だった。同年代の子よりもませていたわたしは、凍死というものに憧れた。もしも将来命を絶ちたくなる日が来たら、この方法にしようと心に決めた。  それから義務教育を終え、進学し、子どもと呼ばれる歳ではなくなったころ、凍死というものはそうそう楽でも美しくもないのだと知った。雪山で、いや、しばしば夏の山でも、運悪く低体温症になった人は錯乱し、幻覚や幻聴に苛まれ、うわごとを口走りながら弱ってゆくものらしい。遺体だってきっと凍傷で真っ黒になってしまっているだろう。  万が一の時は雪山で強い酒を飲んで寝るという長年温めてきた計画を、わたしはあっさり反古にした。当時のわたしは花の中を舞うように幸せではなかったが、地の底を這うような不幸を味わっていたわけでもなかったから、子どもじみた夢のひとつが消えたところで大して困ることもなかった。  それから十年と少しの間に世界は変わった。目先のことにとらわれ忙しく生きてきたわたしには、どうして世の中がこれほど貧しく、人びとが厳しい言葉を投げあうようになったのか解らなかった。  物価も税金も上がり、しかし給料は増えず、仕事があるだけありがたいという始末だった。雪山で氷の棺に眠る夢を見ていたころには、少なくとも表向きは穏やかだった北の国は、今や世界の半分から恐れられるようになっていた。残りの半分は逆にその国を褒めたたえて手を組んだ。世界中の国が怯えるように軍備増強に走っていた。  夏の陽は人もアスファルトも焼き、夜には連日南国のスコールを思わせる雨が降った。冬至を挟んだ三ヶ月の間、地面は乾きひび割れた。今迄使ってきたエアコンで夏の暑さはどうにかなったが、刺すような冬の寒さはしのげなかった。  不況の中で、昔ふうのストーブが飛ぶように売れた。わたしも小型のものを一台購入し、仕事から帰ると黒いストーブ...

物語

 ぼくは王になるのだな。最初に考えたのはそんなことだった。なぜかというと、川をゆらゆら流れる小さなゆりかごに乗せられていたからだ。  ぼくの知識によれば、優れた王は親に疎まれるか別の事情で、生まれてすぐゆりかごに入れられ、川に流されてしまうのだ。そしてその先で誰かに拾われ、自分が王子だなんて知らずに育てられるのだ。育ての親は子どものいない老夫婦だったり商人だったり、まだ夫もいない王女だったりする。愛されて育てられた王子は出自を知らぬまま力試しの旅に出て、辿り着いた祖国でやはり知らずに自分の親を殺してしまう。その後、彼は王となってふるさとの国を支配する。そんな伝説は世界のあちこちにある。  どうしたわけか、ぼくは生まれてすぐなのにそうしたことを知っていた。もしかしたら前世で得た知識なのかもしれないし、生まれる前の魂が暮らす天の国で、図書館に入り浸っていたのかもしれない。いや、生まれてすぐの赤ん坊は実は誰でも、大人から見れば思いがけないようなことを知っていて、成長するにつれて忘れてゆくのかもしれない。  ともかくぼくはそうしたことを知っていたので、安心してゆりかごの中でまどろんでいた。ゆりかごは籐で作られ、中には柔らかな毛布が敷かれていたからこの上ない寝心地だった。おまけに空は春の光に満ちているし、川はゆったりと流れてゆくし、どこからか鳥の囀りさえ聞こえていた。ぼくは安全な旅の末に自分が誰かに拾われることを疑わなかった。  もちろんそうなった。ぼくを見つけたのは水遊びをしていた小さな女の子だった。ゆりかごは不意に渦に巻かれたあと、彼女が柔らかい泥を踏んだり、川底のきらめく砂利を眺めたりしている浅瀬のほうへ押し出された。  突然眼の前に現れた奇妙な籠に、少女はびっくりして捕まえたばかりの蟹を落とした。それから細い腕でぼくの眠る籠を引き寄せ、中を覗き込んだ。  ぼくと彼女の眼が合った。その日の空のような水色の眼だった。夜の色の前髪を眉の上で切りそろえ、編んだ横髪の先に緑の飾りをつけていた。神に仕えるもののあかしだろうとぼくは思った。  彼女は大声で誰かを呼んだ。丈の高い草の間から、びっくりするほど背の高い影が現れた。影は槍を持っていた。腰からは大きな剣が下がっていて、むき出しの腕は豊かな筋肉に包まれていた。  男だ、とぼくは思った。この子を守る戦士だろう。しかし影は女だった...