東風
その人は奇妙なかばんを持っていた。それが不思議でたまらなくなって、あとをつけることにした。 もちろんそんなことは非常識だと分かっていた。でも、よく晴れた気持ちのよい春の午後だったし、なのに自分は仕事を馘になったばかりで気が滅入っていっていたし、なにより時間を持て余していた。当面の生活費はどうにかなるけれど、次の仕事が見つかるかどうか分からなかった。そんな現実からいっときでも逃れたかったのだと思う。 その人は灰色のジャケットを着て、うす茶のズボンを履いていた。靴は傷ひとつなく磨き上げられていた。後ろ姿からは男性だということしか分からない。チャコールグレイのソフト帽をかぶっていたから、巻き毛なのか、黒髪なのか赤毛なのか、禿げているのかも分からなかった。 そんな、地味で目立たない男性が大きな緑のかばんを持っているのが眼を惹いた。子どものころに好きだった童話に出てきた不思議なナニーの、絨毯でできたかばんを思い出した。そのかばんが実際にはどんなものなのかは想像するしかなかったのだが、彼のかばんはその、童話のかばんを思わせた。全体に緑で、その緑も薄いものや濃いものや、明るいものや暗いものが入り交じって‥‥なんというか、もしゃもしゃしていた。毛の堅い犬を抱えて歩いているようにさえ見えた。ともかく普通の生地で作られたかばんではなかった。 おまけに男性のかばんは大きかった。わたしは今「抱えている」という言葉を使ったけれど、まさにそんな感じだった。おまけに丸く、はちきれんばかりに膨らんでいた。 その人を見かけたのは、平日の昼過ぎの大通りだった。わたしは役所で必要な手続きを済ませ、道を渡った先にある職業紹介所に書類を出して、そういえばお昼を食べていないななどと考えながら、ラムネ色のくすみだらけのドアを押し開け、自分のアパートとは反対の方向に歩き出したところだった。このまま部屋に帰りたくなかった。 その人は、猫背なのだろうか、少し体を前屈みにして、とぼとぼと歩いていた。人通りは少なかった。ジャケットの肩に、帽子に、鞄の上に、春の陽が散っていた。 街路樹の枝の細い影が、丸い背中を撫でるように過ぎて行った。わたしはたまたま行き先が同じなのだというふりをして、彼のあとををつけ始めた。 彼は何処に寄ることもなく、急ぎもせずに歩いていた。昔ながらの床屋と、眼鏡と宝石と時計を扱ってい...