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Showing posts from May, 2024

星の春

 まだ夜は明けていなかった。陽が昇るまでにあと半刻の時間があった。  わたしは星だった。一年中雪を頂く尖った峰のはるか上、薔薇色の空に吊るされた銀の椅子に腰掛けていた。  頭には金の冠を巻いていた。わたしの髪は茶色がかった墨色だったが、冠のせいで遠くからは金髪に見えているらしかった。なぜそれを知ったのかといえば、下の人々がわたしのことを、金の角とか金の魚とか、金のひとみとか呼ぶのが聞こえたからだ。時代が変わり、名が変わっても、わたしの名に黄金という言葉がつくことだけは変わらなかった。  わたしの薄く、淡い色の衣はたやすく空に溶け込んだ。冠が、正確に言えば冠に留めつけられた大きな石が金の光を放つのは、昇る前の太陽の光を受けるごく短い間だけだった。  人々が起きる時間は時代によって、国によって、地域によって違いっていたが、貧しく、懸命に働かなければ食べていけない人々ほど朝が早いと決まっていた。彼らは井戸や川の水で顔と手を清めると、わたしに向かって祈りをささげた。どうか今日も一日無事に過ごせますように、というものがほとんどだったが、もっと具体的な願いを口にする者も珍しくなかった。今年は少しはまともな稔りがありますようにとか、赤ん坊が無事生まれますようにとか、戦争が早く終わって夫や父親が帰ってきますようにとか、そんな願いだ。  しかし、わたしには彼らの願いを叶える力はない。太陽にも月にもほかの星にも、夜中に身を横たえる天の川にも人の運命を変える力はない。流れ星にはそんな力があると聞いたが、彼らはひどく気まぐれだ。ほうき星については空に現れただけで世界を滅ぼす力があるというが、断言しよう、そんなことは一度もなかった。  わたしたちはただ、空を巡り、現れたり消えたりしながら人々の営みを見守るだけだ。いや、ただ眺めているだけだ。その中で最も人に心を寄せているのがわたしだった。太陽は人間たちの愚かさにうんざりしていたし、月はといえば美しい少年や少女にしか興味がなかったし、他の星々はおしゃべりやうわさ話に忙しかった。  春だった。何億回目かの春が再びこの星にやってきたが、春というものが生まれてからの年数と、春の回数は同じではなかった。百年のあいだ、この星にはっきりと春がやってくることはなかったからだ。久しぶりの春にわたしは驚いていた。 「ああ」昇ってきた太陽が言った。彼の鷹揚な、ほん...

楔(後)

  翌日、わたしはまた海へ行った。あの猫が早速現れ、ついて来た。  一度壊れた見えない壁は、自由に抜けることができた。一度降りた浜はもう少しも怖くなかった。一度足を洗った波は、踝の周りに白い泡を立てた。帽子を脱いで蒸れた頭を少し扇ぐくらいでは、火ぶくれになどならないとわかった。  通りと草と、砂の上を行きできるくらい自由になったわたしは、グレイの猫と一緒に人けのない浜をぶらついた。あの人はいなかった。別の浜に向かったか、村に帰ったのかもしれない。でも、この浜の砂が気に入っているようだったから、こうして通っていればまた会えるかもしれなかった。  貰ったペンダントをつけてみた。長く引き伸ばした雫にも、磁石か時計の針にも見えるペンダントは、硝子の割に妙に軽く、なのに鎖ばかりが重く、すぐに首が痛くなった。だからわたしはペンダントを、引き出しの奥のキャンディの缶にしまった。とうの昔に空になった缶の蓋には子猫と遊ぶ金髪の天使が描かれていた。  どのみちペンダントをつけて過ごすことはできなかった。母に見つかればどこで手に入れたかしつこく訊いてくるだろう。訊かれれば正直に答えてしまうだろう。浜に降りたこと、知らない男性と話したこと。外で帽子を脱いだこと、猫の頭を撫でたこと。その猫を連れて今も浜に通っていること。ひとつだけでも母の病気を一気に悪化させてしまうだろう。ペンダントは取り上げられ、粉々に砕かれてしまうだろう。猫は見つけ出され、追い払われてしまうだろう。  でも、わたしが罪を告白するまでもなかった。母の病気はなだらかな下り坂から崖道を転げ落ちるように悪化し、木枯らしの吹くころには遠い街のホテルのような病院に入院した。  父は仕事と母の見舞いで忙しかったから、わたしは屋敷にひとりきりになった。  お手伝いさんのおかげで不自由はなかった。膨らみきったパンだねのように太り、薄くなりかけた縮れ毛を頭の後ろでお団子にしているお手伝いさんは、自分の立場を充分にわきまえていた。だから、長く患っていた奥さまがついに病院に入られたとか、ご主人さまが滅多に家に帰らず、たまに戻るといつも違う香水の匂いをさせているとか、ひどく痩せてはいるものの、奥さまよりはよっぽど元気そうなお嬢さまが、学校にも行かせてもらえず長く放っておかれているとか、そうしたことにはけっして口を挟まなかった。ただ洗濯をし...

楔(前)

 わたしは病気だった。大人たちはそう言っていた。海の近くに越して来たのも、ほんの少しでもわたしが元気になるためだった。  どんな薬よりも自然の中で過ごすのが、こうした病気には一番いいのだ。大人たちはそんなふうに考えていた。父が、白衣を着た医師が、親戚のおばさんたちがそう囁きかわしていたのをぼんやりと覚えている。  だから、新しく移り住んだ町は自然というものに溢れていた。青と紺と藍と黒とが指先を絡めるように混じりあい、銀のしぶきに縁取られていつもゆらめいている海。さくら貝色の岩肌を海風にさらす小高い丘。こんもりと茂る深緑の森。  その代わり、他のものはほとんどなかった。食料品店に雑貨屋に惣菜屋、魚料理しか出ない定食屋の並ぶ“大通り”は、道幅こそ広いものの、子どもの脚でも十分歩けば終わってしまう。気まぐれに現れる小路が不思議なくらいに静まり返っているのは、そのあたりの店が夜しか開かないからだ。そして、町にひとつしかない学校は夏休みに入ったばかりだった。  そんな町から見晴らせる丸い湾の向こう岸を、異国の遺跡を模したホテルと人形の家のようなヴィラが埋めていた。湾の水は明るいエメラルド色で、バカンスに来た人びとが三日月形の帆を張った白い小舟を浮かべている。陽が傾くと帆は金色に染まり、湾全体が笑いさざめいているようだ。ひなびた大通りからいったいどの道をたどればあの楽園に行き着けるのか、わたしには見当もつかなかった。  もっともわたしが越してきた家も、その町ではなかなか立派なものだった。二階建ての古い屋敷で、石垣に囲まれた庭には覚えきれないほどの樹々が植わっていた。正面の黒い門は締め切られていて、わたしも父も、通いのお手伝いさんもアーチ形の細い裏門から出入りした。  わたしの部屋は二階の西の角だった。ベッド脇の窓からはあの夢のような湾が、デスクの前の窓からは夜空のような海が見えた。廊下に出れば淡いもも色を秘めた丘が控えていた。  海は昼も夜もさざめいていていたから、いつも風の中にいるようだった。本物の風の吹く日は庭の木々の葉擦れの音が重なり、海と陸との合唱になった。  海辺の屋敷に越してくるなり母は言った。 「ひとりで浜に近づいては駄目よ。海はお前みたいな子をいつも狙っていて、機会があればさっと攫ってしまうんだから」  それから母は、けっして途切れることのない海の音と、せっかく...

求婚

  雪の上にペンが落ちていた。  見つけたのは大雪の降った次の日の朝だった。おかしなことだと思った。雪はぼくがベッドに入るころ、つまり夜半過ぎにはまだ降っていたからだ。  ペンはふんわり積もった雪の上に、なかば埋もれて刺さっていた。ということは、このペンを誰かがここに落としたのは、雪がやむ間際ということにならないだろうか。もし雪の降る前であれば、ペンはすっかり雪に埋もれて春になるまで見つからなかったに違いない。  ぼくはペンを注意深くつまんで取った。積もったばかりの雪の上に、歪んだ深い穴ができた。午前も半ばの光が差して、穴はコバルト色に染まった。  子供のころ、初めてこれを見た時に、父が光の反射で青く見えるのだと説明してくれたことを思い出した。なぜ光の反射でそう見えるのか、当時まだ学校に上がったばかりの子どもだったぼくには分からなかった。父はそのあと、海や空が青く見えるのと同じだと付けくわえたが、やはりピンとこなかった。  けっきょく父はそれ以上は教えてくれず、四年前に他界した。特に科学が好きだったわけではないぼくは、それ以上父に訊こうとも、自分自身で調べようともしなかった。だからなぜ雪の穴がコバルト色に染まるのか、正直今も分からない。  ぼくはペンの雪を払い、そのまま家に持ち帰った。その日は仕事は休みだったし、どのみち体面を保つためにやっているだけの仕事だった。父から受け継いだこの小さな屋敷に住み、両親が残した財産をしかるべきところに預けていたので、働かずとも、贅沢をしなければ一生食べてゆける計算になっていた。金をつぎ込むような趣味はなかったし、女遊びをしたいとも家庭を持ちたいとも思わなかった。ぼくは稀に見る無欲で無気力な人間なのだ。  ひとりには広すぎ、ぼくのような人間には明るすぎる居間で改めてペンを眺めた。真っ青な、硝子とも金属ともつかない美しい素材でできた太いペンだ。渦にも蔓にも見える銀の筋が全体を取り巻き、その筋がガイドになるのか、不器用なぼくでも自然に正しく持つことができた。蓋を取り、試し書きをしようと手近のメモ用紙を引き寄せた。  正方形の白い紙に、ぼくはまずこう書いた。 “雪の上にペンが落ちていた。”  まずまずの書き心地だ。インクはやや明るいブルーブラックで、滑りは少し良すぎると思った。  次にこう書いた。 “見つけたのは大雪の次の日の朝だ...

楽しい処

 わたしは学校に入れなかった。  お父さんもお母さんも、もちろんわたしも、こうなることは分かっていた。  お父さんはずっと前から、きっとわたしが物心つく前から覚悟して、心の準備をしてきたと思う。だけど、お母さんはそうではなかった。お母さんはわたしが普通の、他の子たちと変わらないと必死に思い込もうとした。だから布張りの無地の本や、いつかこの世界に迷い込んだ鳩の羽根で作られたおもちゃや、水を織った布で仕立てたアイスグリーンのワンピースをわたしに買い与えた。  でも、本のページには文字ひとつ現れず、白い羽虫が宙を舞うことはなく、霜のレースで飾った水のよそゆきは、わたしが手を触れた途端崩れて足元に流れ落ちた。  乾かそうとお母さんは小さな火を呼び出した。だけど、ゆらめくオレンジの火をいつまでも帰そうとしなかったから、お父さんが気が付かなければ、わたしも絨毯も黒く焼け焦げてしまうところだった。 「あなたはできないんじゃない、しないだけなのよ」それがお母さんの口癖だった。「お母さんはわかってるわ。あなたはただ、力を使うのが怖いだけなのよね」  わたしもたまに、自分は普通の子と同じか、実はそれ以上の力を持っているんじゃないかと考えることがあった。お母さんの言う通り、できないんじゃなくてしないだけで、ただ、きっとそう、たとえばなにかが怖くて他の子と同じにできないだけなのだ。  精神的なショックのせいで力を失う、というのはよく聞く話だった。たとえばお父さんの妹、つまりわたしのおばさんは、わたしが生まれる少し前に戦争に行き、世界の果てで怖ろしいものをたくさん見て、そのせいで力を使えなくなったのだそうだ。  おばさんは今、王さまからいただいた田舎の小さな一軒家に暮らしている。屋根には鳥が巣をつくり、窓辺にグレイの猫が寝ていて、庭には花が咲き乱れている、そんな家だ。  だけどどんなに考えみても、わたしは力を失うほど怖い思いをしたことなんて一度もない。ただ、生まれつき人並みのことができないだけだ。  生まれつきの人間は、勲章も家も、一生かかっても使い切れないほどのお金も貰えない。代わりに七歳の誕生日からかぞえて最初の夏至の日に、わたしたちのような子どものためにつくられた、特別な場所に行くことになっていた。  わたしが学校に入れないと知ってから、お母さんは雲のベッドにもぐりこんだままだった。 ...

雨季      

 この星の夏は短かった。白やピンクや紺色の花が一斉に咲き、人々はその上をぶんぶん飛び交い、深紅やオレンジや黄色いイチゴを我先にと口に入れる。  そんな日々がしばらくの間続いた後、滝のような雨が降る。雨季の間、彼らは各々の塔に閉じ込められる。川は溢れて海となり、森は緑の小島になり、高い丘は帰り損ねた者の避難所となる。そして雨がやみ、雲が切れ、青空から白い陽が差すと、きらめく水の上を行き来して互いの無事を確かめるのだった。  この星の小柄でゆっくりと歳を取った。子供時代が最も長く、青年時代はそれに次いで長く、子を作る力を失うと急速に弱り、眠るように死でゆく。  彼らは一日の五分の一しか眠らない。夏の間しか恋をしない。女たちは水が引くと、春の間に用意した産屋に誰が父親かわからない卵を産む。次の夏には別の男と恋に落ちる。産屋は細く高い塔の上にあった。  彼は王子だった。と生まれた時から信じていたが、勝手な思い込みなのかもしれなかった。しかし、小さな丸い、居心地のいい彼の部屋は豪勢なタピスリーや美しいマットで飾られ、丸い籠には一生かかっても食べきれないくらいの実が、大きな壺には三人は養えそうなくらいの蜜が入っていた。ほかの塔を見たことはなかったが、こんなにも恵まれた自分は特別な存在に違いなかった。  王子であるはずの彼は、どうしたわけかぐうたらだった。ぐうたらというよりは無気力だった。仲間たちは薄い羽が生えればすぐに窓から飛び出し、夏の空をぶんぶん飛んで恋をするのに、どうしてもそんな気になれなかった。毎日ベッドに寝ころび、座り、かと思えばひっくり返り、今日はいい天気だとか、昨日より雲が少し多いとか、風が強いとか、こんな日に初めて外に出たらうまく飛べないに違いないとか、そんなことを考えて何もせずに日々を過ごし、明日こそはこの虹色の羽をつかおうと自分に言い聞かせるのだった。  そんなふうにしてまたひとつ夏が過ぎた。また雨が降り始めた。身体が少しだるいような気がした。ゆっくりと羽を広げ、視界の端に映る虹色の膜を確かめると、なんだか萎れているような、色が褪せているような、白く曇っているような気がした。  いや、きっと気のせいだ。雨のせいでそんなふうに見えるのだ。  雨季に外には出られない。飛ぶのは次の夏にしよう。彼はそう考え、鎧戸を下ろし、へたりだしたベッドの上に丸くなった。雨音が長...