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Showing posts from April, 2024

最初の卵(後)

 目が覚めた。  壁に凭れてベッドに座り、昔のことをもっと思い出そうとした。  一度だけ会った“新しいお父さん”は、想像していたより若く見えた。でも、お面のような、不自然に皺だけのない顔だった。  オレンジのスタンドがたったひとつともるだけの暗い部屋、本棚に覆われた壁、雑然と積まれた書きつけの束、埃とたばこと珈琲の混じりあった匂い。  その部屋で長い話を聞いた気がする。話はとりとめがなく、夢の中で耳にする見知らぬ人の呟きのようだった。それでもかろうじて分かったのは、今戦争をしていること、じきにこのあたりも危険になるということ、世界中が戦争をしているから逃げる場所はどこにもないこと、だからわたしはの地下の部屋に隠れなければならないのだ、ということだった。 「そこなら絶対に安全だ」とお父さんは頷いた。そして、「お前を守ることが、ひいてはこの世界を守ることなのだよ」と付け加えた。白い手の女性はわたしを抱きしめて少し泣いた。  それからわたしは彼女に連れられて長い階段を降り、厚い小さな戸をくぐり、青いスツールの置かれたこの部屋に入れられた。後ろで錠が下りた。屋敷のときよりは軽い音だった。  それからはずっとここで暮らしている。与えられたものを食べ、届けられるものを読み、日に三度の水薬を飲み、部屋を満たす夏草の香りの中でぐっすり眠った。  ここに来たばかりの頃、幾度か弱い揺れを感じた。どこかに爆弾が落ちたのだろうか。それとも地震だろうか。でも、ここが安全なのはどうやら本当らしかった。  これ以上考えても仕方がない。わたしは部屋を調べることにした。空腹に耐えつつ起き上がり、四方の壁を撫でまわし、櫃の中を探り、床を隅から隅まで叩いたり押したりした。  スツールの、上から指三本分のところに細い継ぎ目が見つかった。継ぎ目に合わせて爪をずらすと隙間ができた。指を差し入れ、重い蓋を持ち上げた。  中には水の瓶と、紙袋と着替えが入っていた。袋の中はビスケットとドライフルーツとチョコレートだった。  わたしは拍子抜けしてその場にぐったり座り込んだ。それからともかく水を飲み、ビスケットの包みを剥いて数枚口にした。チーズ味のビスケットはぱさぱさしていて幾度も喉に詰まったが、水で流し込むとともかく力はついた気がした。残りはとっておこうと思った。  それからシャワーを浴び、櫃の中の着替えを無視して箱...

最初の卵(中)

 夢を見た。  夢の中で、わたしは小さな子供だった。グレイのワンピースを着ていた。色は地味だが、襟元のボタンは本物の貝だった。 「感謝して、大切に着るんですよ」  そう言われたのを覚えている。ワンピースは古着で、元々はお金持ちのお嬢さんのものだった。声は高くしわがれて押しつけがましかった。右の人差し指にぎらぎら光る紫の石をつけていた。あの白い手の人では絶対ないと、夢の中でもうひとりの自分を見ながらわたしは思った。  グレイのワンピースに黒いタイツ、地味な茶色い靴を履いたわたしは、いやに大きな古い家に住んでいた。広すぎる庭は藪に覆われ、朽ちた石像や、乾いた枯れ葉の詰まった噴水があった。手入れのされない花壇には、はるか昔、華やかに着飾った人がたちが屋敷を出入りしていた頃に植えられた水仙の、孫の孫のそのまた孫たちが弱々しい花を咲かせていた。  屋敷には大勢の子どもと、子どもの世話をする大人たちが暮らしていた。高い声の女性はそこでは先生と呼ばれていた。背は声と同じく高く、蝋のように白い額はちりめん皺で覆われていた。  かつて宴会が開かれていたホールは食堂に、舞踏会が行われていた部屋は遊戯室に使われていた。紳士や貴婦人が夜を過ごした寝室の半分には、鉄製の小さなベッドがひと部屋につき五台ずつ詰め込まれ、残りの半分はがらくた置き場に変わっていた。  親を亡くした子供たちが、次の養い手が見つかるまでの間暮らす施設だった。他の子たちはグループを作り、戦争ごっこやままごとをしたり、グループ同士で同盟や条約を結んだりしていた。わたしは特に友達が欲しいとも、どこかのグループに入りたいとも思わなかった。  その頃、わたしは既に読み書きができた。普通の子より何年も早かった。がらくた置き場には埃をかぶった本が大量に積まれていたから、こっそり持ち出しては、自分のベッドで、庭のベンチで、遊戯室の隅の暗がりで読み耽った。配給の自由帳は自作の物語で埋められた。そこで配られるノートはどれもざらざらしていて書きづらかった。  大きな緑の眼をしたおさげの女の子が、ある日わたしにこうねだった。 「いつも本を読んでいるなら、たくさんお話を知ってるんでしょ。何か話してよ」  時々ゲームに誘ったり、とぼしいおやつを半分分けてくれたりする子だった。単純なゲームも干からびた焼き菓子もたいして好きではなかったが、なにかと気...

最初の卵(前)

 小さな部屋に、わたしはひとり暮らしていた。  さいころのような真四角の部屋だった。低いベッドと着替えをしまう平たい櫃と、部屋と同じさいころ形のスツールがあった。壁には吊り棚と丸い時計が掛かっていた。  すべてが灰色の部屋の中で、布張りのスツールだけが目の覚めるような藍色をしていた。すべすべして柔らかいのに鉛のように重いので、動かすことはできなかった。  むき出しの壁にはドアがふたつと、小窓がひとつついていた。外が見える窓はなかった。  ドアの一方は洗面台とトイレとシャワーに続いていた。もう一方のドアは開けることができなかった。銀色のノブの下に鍵穴があったが、部屋に鍵は見当たらなかった。   小窓はその、鍵のかかったドアのすぐ脇にあった。横長の引き戸で、三度の食事はこの小窓から差し入れられた。蓋つきの皿に盛られた食事は温かく、少なくとも自分の舌には合っていた。  汚れた服やタオルは夜の間に消え、朝には新しいものが櫃にきちんと収まっていた。床にも棚にも埃ひとつなかった。隅に箒とちりとりが立てかけてあったが、わたし自身が使うことは滅多になかった。  わたしが眠っている間、あの、鍵のかかったドアが開いて誰かがそっと入ってくるのだ。物音ひとつ立てずに部屋を掃除し、ごみ箱を空にし、着替えを置いて影のように出てゆくのだ。その人は掃除にあの箒とちりとりを使っているのだろうか。  食事を差し入れてくれるのは、いつも同じ白い手だった。指は丸く、爪はきれいな桜貝の色をしていて、薬指に金属の細い指輪を嵌めていた。  小窓の引き戸が開く前には足音が聞こえた。軽い、踊るような足音だった。手と足音から女の人だという気がした。掃除をしてくれるのもきっと同じ人だ。  誰だろう。お母さんかしら。看守かしら。わたしは罪びとなのだろうか。それともあの人は看護師さんで、わたしはなにか怖ろしい病原菌を持っていて、周りに伝染さないよう閉じ込められているだろうか。会って確かめたかったけれど、時計の針が十時を指すと魔法のような眠気に襲われるので、寝ずにいる努力は早々に放棄していた。  欲しいものがあればメモ用紙に書き、スツールの上に置いておくと大抵は叶えられた。チョコレートとかパズルとか、水色の果物とか、変わった味の歯磨き粉とか。  ある日、思いつめたわたしは続けざまにこんなメモをスツールに置いた。 「ここはどこ...

公開日のずれについての追記

 公開日がずれていたのはタイムゾーンの設定がアメリカになっていたためでした。  先ほど日本に変更し、過去の記事の公開日も自動的に正しいものに更新されました。  公開日のずれでお困りの方は、タブの設定→フォーマットからタイムゾーンを確認してみてください。  開設早々お騒がせしました。

公開日のずれについて

 現在、記事のタイトル下に表示される公開日と実際の公開日にずれが生じており、タイトル下の公開日が実際の公開日より1日遅くなっています。 (編集画面では正しい日付が表示されるのですが、記事が反映されるのはなぜか前日の日付です)  作品末尾には書き上げた日と最後に推敲した日の日付を入れることにしているため、投稿直前に手を入れたものでは、作品末尾の日付が公開日の1日後になってしまっています。  ややこしい話でごめんなさい。時差のせいなんでしょうか。うまく説明できていればいいのですが。 2024/04/21 つまり、この日付がこの文章を書いた日で、実際の投稿日となります↑

霊園

 よく晴れた初夏の日だった。  昼前から雨という予報だったが、傘は持ってこなかった。小さな黒いバッグの中身はハンカチと事務用のナイフ、ダイアリーと父の形見の貝殻細工のボールペン、それに縁のほつれた折り畳み式の財布だけだ。  バッグは黒を選んだが、服まで地味な色にする気にはなれなかった。こんなに気持ちのよい日なのだ。だから、五分袖のブラウスと水色のスカートの上にレモン色のニットを羽織ることにした。靴は買ってから数度しか履いていない若草色のパンプスだ。少し可愛らしすぎる気もしたが、特別な日なのだからいいと思った。  黄色いバスの乗客はわたしだけだった。運転手さんはとっくに家で孫の面倒を見ていてもおかしくないような山羊髭のお爺さんだ。ミラーに映る長い眉毛の下の眼は、居眠りでもしているかのように細かった。  バスはくねくね曲る小路を抜け、大通りから街を出て若草色の野を走り、深い谷に架かる錆のだらけの鉄橋を渡った。山羊の運転手さんがハンドルを取れられて谷に落ちるかと思ったが、そんなことにはならなかった。  青緑色の木陰をくぐり、ぱっと明るい日が差すと、青空の下に広がる墓地が見えた。 「霊園前、つぎは、霊園前」というアナウンスを聞いてチャイムを押した。ステップを降りる前に、金属製の箱の口に硬貨を落とした。白い硬貨と茶色い硬貨はゆっくりと機械の奥に呑まれていった。  バスは初夏の光の中をのんびりと去っていった。懐かしい排気ガスの匂いを嗅ぎながら見送ると、わたしは墓地の真っ白い門をくぐった。  墓地には教区の人間がすべて埋葬されていた。怪奇小説のような怪しげな雰囲気が全くないのは昼間だからだろうか。それとも天気のせいだろうか。ゆるやかに波打つ芝の中に、思いおもいに作られた墓がぽつぽつと散っていた。白い道が墓石の間を縫い、よく手入れされた花壇の傍には真鍮のベンチが置かれている。奥のあずま屋は黄色とピンクのバラにのつぼみに飾られていた。  わたしはしばらく墓地を歩いた。平日のせいか、ほかに人は見当たらなかった。それから名も知らぬ大きな樹の下に置かれたベンチに座り、バッグからペンとダイアリーを取り出した。  今月ぶんのマンスリーページは真っ白だった。その前の月の終わりに近いところに、恋人だった人との約束が小さな字で記されていた。  最後の予定だった。彼とは二度と会えなくなったから...

図書館

  戦争は終わった。あんなに懸命に、あんなに長く、あんなに必死に戦ったのに,わたしたちはこの戦いに勝つことができなかった。  わたしはひとり、灰色の街を歩いていた。わたしが生まれ育った街だ。国でもっとも賑やかで、もっとも美しく、海辺に咲く花と言われていたところだった。  青空をつく高いビルが立ち並んでいた。公園の、パステル色に塗られた遊具で子供たちが遊んでいた。広場にそびえる天使の像が、薔薇色の瓦の波を見下ろしていた。三階建ての白い壁の間の路地には洗濯物がはためいていた。鎧戸付きの窓には花が飾られ、朝にはパンの、夕方にはシチューの匂いが漂った。  今はすべてが失われた。  空には灰色の雲が垂れ込めていた。かつてはこの国を象徴するオレンジの薔薇が描かれていた壁には巨大な穴が開いていた。集合住宅は外からでも部屋べやの様子がよく見えた。傾いたベッド、綿の飛び出したソファ、今にも落ちてきそうなピアノ、不思議と汚れていない額入りの風景画。  公園の真ん中に斜めに刺さった不発弾は、平和な時に笑って読んだ漫画のワンシーンのようだった。でも、今のわたしはうつむいたまま脇を通り過ぎるだけだ。  下町は破壊しつくされていた。ひと足ごとに踏む瓦の色がもともとのものなか、住人の血で染められたものなのかはわからなかった。途中、誰かが自分で脱ぎ捨てたのか、誰かに引きはがされたのか、それともどこかの窓からたまたま落ちたのかわからない上着を拾った。今が夏なのか冬なのかわからなかったが、ともかくひどく寒かったから袖を通した。  少女が着るような丈の短いボレロだった。大きなくるみボタンには、花や鳥や木の葉が刺繍されていた。袖は、手の甲がすっかり隠れるくらい長かった。いつかこんなふうに、華奢に見せるデザインの服が流行ったことを思い出した。  戦争が始まった時、わたしはまだ少女と呼ばれてもおかしくない歳だったが、今、自分が少女とか娘とか呼ばれたら違うと首を振っただろう。慰み者になる不幸は免れたが、代わりに何人もの兵士を手に掛けてた。初めて人を殺した時のことはまだはっきり覚えている、と言いたいところだが実はとうに忘れてしまった。  緑の鎧戸と赤茶色の植木鉢のかけらの山を踏み越えたところに、見知らぬ人が座っていた。まだ若い男のようだ。声を掛けようとして異臭に気づいた。見ると、戦闘服の破れた袖から大きな...

楽園の猫

 世界が造られてまだ間もないころ、東の地に楽園があった。  神の造ったこの楽園には、世界中の生き物がすべて集められていた。神は世界を造り、生き物を造り、楽園を造り、花と樹と草と動物たちを住まわせた。最後に神は人間を造った。まずは男を、次に女を。  人間は、小麦色の肌をした手足の長い生き物だった。男の身体は逞しく、脛も腕も、そして顎も栗色の毛に覆われていた。女の身体はしなやかで、焦げ茶の髪は波打ちながらくびれた腰を覆っていた。神は彼らを動物たちの主として楽園に迎え入れた。  美しい生き物で満たされた楽園だった。草は丈高く柔らかく、踏まれるたびにみどりの香りを漂わせた。花々は陸に水面にあざやかに咲き匂い、風が吹くたび金色の花粉を散らした。樹々は丸や雫形や三角形の葉の間から、色とりどりの果実を滴らせた。  生き物たちは広々としたエメラルド色の草原で、深い瑠璃色の水の中で、トパーズ色の木洩れ日を降らせる樹の上で、のんびりと毛繕いをしたり、瞼のない眼を宙に向けてまどろんだり、男と女を、そして時折訪れる神を楽しませるための歌を囀ったりしながら世界の朝を過ごしていた。  争いはなかった。病もなかった。一滴の血も流されることはなかった。恐怖も哀しみも痛みもすべて、楽園の外に締め出されていた。  ここにはすべてがあるのだと、男はよく動物たちに言ってきかせた。わたしたちほど幸せで豊かで、安全な生き物は世界のどこにもいないだろう。そう口にするとき、彼は決まって丘のほうに眼を向けた。園の中央の丸い丘には、この楽園で最も美しい樹が植えられていた。 「でも、あの丘にだけは近づいてはいけないよ」 「その通りよ」女が付け加えた。「あの丘には特別な樹があるの。その樹からだけは、けっして実をもいで食べてはいけないのですって。そうするとなにかとてつもなく恐ろしいことが起きて、わたしたちはここに棲めなくなるのだって神さまが仰っていたわ」  動物たちは頷いた。あまりにもゆっくりとした動きだったので、頷くというより舟を漕いでいるように見えた。  金のたてがみを持つ獅子は、もしもけしからぬものが現れてその実を取ろうとしたら自分を呼んでくださいと請け合った。オパール色の鱗を持つ魚は、そもそも丘に近づくことができなかった。紅玉色のくちばしを持つ鳥たちは、丘の上の樹を賛美する新しい歌をうたった。  楽園の獣の中には猫...

映画館の向かいの百貨店の食堂で食べるクリームソーダ

 お年寄りが好きだ。早く自分も年を取って、あの人たちの仲間に入りたいと思う。老人はわたしと同じ場所にいても、違う時代、違う時の流れに生きている気がする。  自分が羨ましいと思うお年寄りは、おしゃれをして徒歩か自転車でどこにも出かけてゆく。ネットは滅多に使わない。買い物のほとんどは実際にある店で済ませる。それも古くからある百貨店とか、百貨店の脇を抜けると現れる商店街の小さな店だ。  うすく光を通す五色に塗られた屋根の下には、色とりどりの魚が氷に漬けられている鮮魚店や、宝石のような野菜と果物が並ぶ青果店や、赤い電灯の下に揚げ物が並び、「馬肉あり〼要予約」と張り紙のしてある精肉店が並んでいる。それに、喫茶店ではなく茶葉と茶器を売るお茶屋、洋品店、履物屋、布団屋に飴屋に煎餅屋‥‥。  どこも潰れていないということは。商売をやってゆけるくらいの客の入りはあるのだろう。自分もいつかああした店に通いたい。魚を魚屋で、野菜を八百屋で、肉を肉屋で買う生活をしてみたい。仕事で忙しくてそんな余裕はないけれど、おばあさんになれば叶うような気がした。  今の自分ににできることは、休日に女友達に混じって冷やかし半分に古い百貨店に入り、食堂で昔ふうのデザートやランチを食べて、写真をSNSに上げ、互いにハートやスマイルのマークをつけあうくらいだ。  本当はそういうのは好きじゃない。かといって大嫌いだというわけでもない。友達と時間を共有するのは大切だと思う。それなりに楽しいとも思う。ただ、窓辺の席で、レースのブラウスに藍色の小花模様のスカートを合わせ、端末を弄る代わりに映画のパンフレットを読みながら、ひとりクリームソーダを愉しむ老婦人はなんてすてきなのかしらと思うだけだ。  百貨店の向かいには同じくらい古い映画館があるから、そこで映画を見た帰りなのだろう。自分も年を取ったらそうしたい。そんなことのできる老婦人になりたい。こんなふうに考えているのは、友達の中ではきっとわたしくらいだろう。  わたしは追い詰められていた。仕事はうまくいかなかった。したいことはさせてもらえず、かといって振られる仕事を上手くこなせるわけでもなかった。気が付くと、プライドばかり高い厄介者になっていた。  そんなことは自分自身、百も二百も承知していた。自立とか自己実現という使い古された言葉に憧れて、なのに力不足のせいで空回りばか...